2024年11月22日( 金 )

天才デザイナー・三宅一生氏をしのぶ 偉大な縄文文化継承者

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(一社)縄文道研究所

 NetIB-Newsでは、(一社)縄文道研究所の「縄文道通信」を掲載していく。
 今回は第95号の記事を紹介する。

夕陽 イメージ    2022年8月5日、世界的なファッションデザイナー三宅一生氏が84歳の人生を見事に全うした。

 筆者は縄文道通信や講演会で三宅氏が縄文文化の「衣」の分野で偉大なる縄文文化の継承者として紹介させていただいた。

 とくに世界のファッション界のひのき舞台で紹介されたセッションワンというコンセプトは「一枚の布」のイメージだが、三宅氏は縄文時代の衣服である鹿やイノシシの皮を一枚の貫頭衣として思い描いていた。

 この一枚の布は和服の文化の元であり、日本の衣文化の背骨を担ってきた。又このシンプルながら奥行きの深い味わいをもつデザインに魅了された著名人はたくさんいる。世界のアップルの創業者・スティーブ・ジョブズの愛した黒で統一された、シンプルな服、レディー・ガガの華麗な色彩の服、ハリウッドの多くの俳優や、ソニーの創業者・盛田昭夫氏等々だ。

 ここで三宅一生氏の人生の概略に触れてみたい。三宅一生氏の人生は広島で始まった。(1938年4月22日)7歳のときに広島の原爆投下で被爆されたことは、彼の人生に多くのトラウマを残したと言われている。

 この被爆体験のハンディキャップを背負いながらも、小学生のころから中学、高校と絵画の腕前は優れていた。卓越した絵画表現の世界を追求するべく東京の多摩美大を目指し合格した。本人は大学でデザイン学科を志望し、衣服とデザインの関係性に着目した。

 60年に世界デザイン会議が開催されたが、衣服についての討議事項が無かったことに疑問をもち、事務局へなぜないのか質問したほど、衣服とデザインへの考えが明確であった。

 若いときの人生の選択として、好きで上手な絵画の才能をデザインに向けて、同時にいまだ関心が払われていない衣服という分野に着眼したことが、三宅氏の人生の飛躍の原点になったのだ。

 三宅一生の活躍は2回の海外雄飛で、才能の開花の準備がされたといえる。65年彼はパリに飛び立ち、有名ブランドの人間の下で彼らのスタイルを学んで行く。この間、68年に5月革命が起こり、人生も衣服も特定の人の為ではなく、多くの人々に愛されなくてはらないことを学ぶ。そして、「多くの人々の服づくりを実践してゆくこと」を決心した。

 次に選んだのは、ニューヨークで、69年にパリから移住し新たな衣服の勉強を始めた。ニューヨークでは多様な人種と文化のなかで、1つの統合とたくさんの人々に受け入れられる「既製服」の文化を学んだ。

 三宅氏がパリで5月革命に遭遇したのが68年で、ニューヨークに雄飛したのが69年である。このころは日本も学生運動が全盛で激動の年であった。筆者にとっても68年は社会人として商社で鉄鉱石を担当し始めた年で、忘れられない記念の年でもあった。

 68年以来約30年間、西豪州ピルバラ、インド、ブラジル・アマゾン、ペルー、ベネズエラ、アメリカ、カナダ、南アフリカと、世界の鉄鉱山を巡った貴重な経験を積ませてもらった。当時は「鉄は国家なり」で、高度経済成長の基礎資源あった。

 三宅氏はパリ以来、長く離れていた日本は、高度経済成長の真っただなかで、70年の大阪万博が予定されていた。彼の衣服のセンスとビジネスの直観力は日本という舞台でオフィスをつくることであった。この年に「三宅デザイン研究所」を創設した。

 余談だが筆者の弟はパリ留学から帰国した関係で、三宅一生氏と親交があり、渋谷で良く飲んだ仲だった。弟の印象は「原爆被災のトラウマを背負って、孤高な人で、自律心強く、人に迷惑をかけない、魅力的な人柄だった。だから、彼は葬儀やお別れの会など嫌うタイプの人」とのことである。

 73年、パリコレクションにて最初の「一枚の布にヒントをえたプリーツ」を出品して、世界から注目を浴びるようになった。

 その後の三宅一生の活躍は世界的天才デザイナーとしての地位を築いたことで、服飾業界のみならず、日本人の誇りでもあった。

 筆者は2018年のパリコレクションでの彼のテーマ「セッションワン」に注目したい。

 この「セッションワン」の意味は三宅一生氏が、学生時代からイメージしていた「一枚の布」であることと、縄文時代の縄文人の衣服「貫頭衣」をイメージしていたイメージの連続性は驚きだ。彼の若いときに感じた「一枚の布」が日本文化の源流の縄文文化の衣生活と一致していた、直観力に対してである。
縄文人は狩猟、漁労、採取生活で得た物を活用して貫頭衣を創っていた。

 鹿、クマ、イノシシの皮を剥ぎ、囲炉裏の火でなめして衣服をつくり、着ていたのだ。縄文中期には麻、からむしを使用してアンギン織で衣服をつくっていたが、「一枚布」である。この一枚布が、日本人の和服になっていくのだ。

 三宅一生氏は若いころから直観力と六感で、日本人の源流である縄文文化と、そこで育まれた「一枚の布」を、世界のファッションの舞台パリコレクションで「セッションワン」として、人生最後に開花したのだと思う。

 縄文道提唱者として三宅一生氏の縄文文化への思いと現実に衣服を芸術的な次元までかたちにして世界へ発信していただいた、すばらしい貢献に感謝と敬意を表したい。心から哀悼の意を捧げると同時に、縄文文化との関わりを今後も世界へ発信してゆきたい。


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