この国の大新聞に未来はあるか?絶滅危機に瀕するメディア(前)
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『週刊現代』元編集長
元木 昌彦 氏結論をいってしまえば、「そんなもん1ミリの可能性もないわ!」としかいいようがない。ジャーナリズム研究者による論考や元・現役新聞記者たちによる体験的新聞紙考も数多く出ている。私もその類の本をかなり読んではいるが、新聞がこの先も存続して、影響力を持ち続けていくだろうと、納得させられるものは“皆無”といってもいい。
本稿においても、新聞のみならず週刊誌などを含めたメディア全体が“絶滅”の危機に瀕しているという認識を示す。だが、わずかであっても生き残るすべはないのかについても考えてみたい。
私は、メディアがここまで追い詰められた理由は、大きくいって3つあると思っている。1つ目は、政治権力側が推し進めてきた言論・表現の自由を狭める数々の方策を、抗うことなく受け入れてしまったこと。2つ目は、今回のウクライナ戦争でも露呈したが、記者が自ら現場に赴き、自分の目と耳で確認して書くという、基本の基を放棄してしまったこと。3つ目は、デジタル化に乗り遅れた焦りから、安易に「デジタルファースト」に走ったため、記者を疲弊させ、後進のジャーナリストを育てる努力を放棄したことだ。
言論・表現の自由の狭まり
「森喜朗はノミの心臓・サメの脳みそ」「嘘つきは安倍晋三のはじまり」
これからは、こんなタイトルを週刊誌がつければ、逮捕され1年以下の懲役を科せられる可能性がある。6月13日に「侮辱罪」厳罰化を盛り込んだ改正刑法が成立し、7月から施行されたからだ。政府はプロレスラーの木村花さん(当時22)がSNSの誹謗中傷で自殺したケースなど、ネット上の誹謗中傷が深刻化しているのを抑止するためだとしているが、本音が別にあることは間違いない。
5月13日の衆院法務委員会で、閣僚を侮辱した人間が逮捕される可能性はあるのかという質問に、二之湯智国家公安委員長は「可能性は残っている」と答弁した。新聞、テレビは腰抜けばかりだから、権力者を侮辱する表現などするはずはないが、週刊誌を含めた雑誌やネットメディアにとって、「言論・表現の自由を圧迫する悪法」になる可能性が極めて大きい。私は常々、この国には「言いっ放しの自由」はいくらでもあるが、真の言論・表現の自由はないといってきた。だが、この刑法改正で、それさえもなくなってしまうのではないかと危惧している。
振り返ってみれば2000年代始めから、政治権力は、メディアの言論・表現の自由をいかに抑圧するかを企み、着々と手を打ってきていた。最初は、記者クラブに属さず、公権力から距離を置き、政治家や官僚、司法関係者など要職に就く人物のスキャンダルやタブーに挑戦して追及する、一匹狼集団の週刊誌にターゲットを絞ってきた。なぜなら、新聞、テレビは、記者クラブを通じていくらでも脅しをきかせ、政治権力側が操ることができるからである。
知恵者がいた。名誉棄損の賠償額を欧米並みに高額化してしまえば、メディアは委縮するに違いないと考えたのである。東京地裁の判事らが主導して高額化への流れが決まったのは2000年だった。それまで名誉棄損の賠償額は、高くても50~100万円程度だった。だが、この年、週刊ポストが、当時巨人軍にいた清原和博がオフにアメリカで遊んでいたと報じ、清原がポストを訴えた。地裁の一審判決で、「清原に賠償金1,000万円を払え」という判決(高裁で600万円に減額)が出たのである。
アメリカなどでは賠償金1億円というのはざらにある。だが、日本の場合、メディア側が圧倒的に不利な裁判制度になっているため、勝つのは至難である。しかも「事実であっても名誉棄損は成立する」のである。そのころ、私は週刊誌の現場は離れていたが、この判決を聞いて、「雑誌は大変な時代に入った」と危機感をもったものだった。
次に出してきたのは個人情報保護法である。作家の城山三郎は「この法案が成立した場合には『言論の自由の死(詩)碑』を建て、小泉純一郎首相や同法案に賛成した全議員の名を刻む」と批判した。弁護士の梓澤和幸は「いわばコンピューター時代の治安維持法といっても過言ではない」と言い切った。新聞、テレビは当初、「出版に網をかける法律で、自分たちには関係ない」と危機感が薄く、メディア全体の運動にまで広がらなかった。作家、編集者、フリーライターらが共闘して、反対運動を繰り広げ、一度は廃案に追い込んだが、権力側の執念はすさまじく、強引に成立させた。
その結果、入院患者やPTAの役員の名前を問い合わせても、「個人情報」という壁に阻まれることとなり、メディアだけではなく、一般市民の生活にも支障をきたすことになってしまったのは、今さらいうまでもないだろう。
政府はその後、雪崩を打つように、盗聴法、特定秘密保護法、そして今回の侮辱罪と、言論・表現の自由を狭める法律を次々に制定させ、メディアの息の根を止めようとしてきているのである。
驚くことに、メディア、とくに新聞、テレビという大メディアが、そうした政治権力の策謀に気付いても、見て見ぬふりを続けるばかりではなく、権力監視というジャーナリズムとして基本の役割を放棄して、喜々として権力側に取り込まれ、番犬になっていったのである。国家行事の東京五輪スポンサーに大新聞が挙って名を連ねたことで、「ポチ化」は完成した。
(つづく)
(文中敬称略)
<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)
1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に講談社を退社後、市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。現在は『インターネット報道協会』代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。関連キーワード
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