福岡城天守は「実在した」 懇談会で示された根拠と復元イメージ(前)
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福岡商工会議所は昨年10月、「福岡・博多の歴史文化を活かしたまちづくりに関する15の提言」を発表した。そのなかで、豊かな歴史と文化を持つ福岡のランドマークとして、福岡城天守の復元を提言している。現在、同商工会議所が事務局を務める「福岡城天守の復元的整備を考える懇談会」が議論を引き継ぎ、3月と4月に開催された第1・2回会合では、福岡城天守の実在の根拠と、天守の復元イメージが示された。その内容を紹介する。
天守実在を示す証拠
福岡城は1607(慶長12)年、黒田長政によって築城された。福岡城の頂上部には天守台が残されているが、建物としての天守の実在を示す設計図や絵図といった直接的証拠が残されていないため、実在は定かではないとされていた。また、黒田家の正史といえる黒田家譜にも天守についての記述がないことなどから、従来は実在しなかったという見方が主流だった。
福岡の町を描いた一番古い絵図『正保福博惣図』(1646年/正保3年)に福岡城が描かれている。そこには、城内の1つひとつの櫓が何階建てだったかまでわかるように細かく描かれているが、天守台には何も描かれていない。よって天守は建てられなかったか、少なくともこのときにはすでに天守がなかったことは確実と考えられている。
しかし近年、黒田家のみならずほかの大名関係の史料に、福岡城天守の実在を示す記載があることが知られるようになり、それらを基に築城当初は実在していた可能性が高いと見なされるようになった。それらの史料について、簡単に紹介する。
①黒田三左衛門宛の長政書状
三奈木黒田家文書に残された1602(慶長7)年と推定される黒田長政が家老の黒田三左衛門(一成)に宛てた書状。そこには「今月中に天守の柱立を行わなくてはならないのだから、そのように大工・奉行たちへ厳しく指示するように」という文意が記されており、天守を建てる工事が進められていたことと、柱を立てる段階まで進行していたことがうかがわれる。
②毛利家文庫『九州諸城図』
萩藩毛利家が九州諸大名の城下で諜報活動を行っていた記録と見られるもので、福岡城についても2つのスケッチが残されている。1611・1612(慶長16・17)年ごろとされ、いずれも左側にひときわ高い天守らしき四層櫓が描かれている。
③細川家書状
1620(元和6)年3月半ば、豊前小倉藩の細川忠利が江戸から国元の父・忠興に宛てた2通の書状。そのなかでは市中の噂として、「江戸の庶民たちは、長政が居城を大かた壊してから江戸にきたと噂していて、いずれ天守なども壊すに違いないとも噂している」ことや、黒田長政が将軍・徳川秀忠に謁見した際、秀忠に対して、「福岡の天守と家を壊したこと、その理由として、徳川家の時代には城などもはや不要で、もし他家に城を取られた場合は徳川家の力で取り返せるはずと考えて、そのように指示した」と言上したという内容が記されており、このころに天守が壊されたことをうかがわせる。
なぜ取り壊されたのか
天守が描かれていない正保福博惣図と、当初、天守が建てられ、その後、壊されたことを示す①~③は、年代的に矛盾しない。では、なぜ天守は壊され、黒田家譜には天守についての記述がないのか。
黒田長政は豊臣恩顧の家臣でありながら、関ヶ原の戦いにおいて徳川方勝利の勲功第一を挙げて、筑前国を与えられた。しかし、幕府に目を付けられることを恐れて、長政と父・孝高は慎重な対応をとってきた。豊臣氏が滅亡した4年後の1619(元和5)年、同じく豊臣恩顧の大名・福島正則が、幕府に無断で城を修繕したとして改易された。このことに長政は衝撃を受け、子の忠行に対する書状で、「今、幕府は諸大名の行状について吟味しているが、10年先には弓矢(軍事力)について詮索を受けるだろう」と忠告している。
同年、幕府は大坂城再築を諸大名に通達し、黒田家も普請に参加した。③の細川家書状に関連して、細川忠興が江戸の忠利に宛てた返信には、大坂城普請工事に関わる長政の動向が記されている。それによると、黒田家は割り当てられた普請工事が遅れていたらしい。その遅れを取り戻すために、長政は福岡城の石垣や天守を解体して大坂城の資材として運んだという話を伝えている。ここに長政が天守や石垣を壊した事情が明らかとなっているが、長政は幕府の詮索を避けて黒田家の安泰を図るために、先手を打って福岡城を破壊したのではないかと考えられる。黒田家譜の編纂においても、幕府を憚って築城や天守に関する記事の削除と隠蔽が行われたのではないかと考えられる。
天守台の柱間と桁行と梁行
では、実際に福岡城の天守が存在していたとすると、どのような姿をしていたのだろうか。九州産業大学名誉教授の佐藤正彦氏の考証をもとに見てみる。
前述の通り、福岡城の天守には設計図や絵図などの史料がない。往時の天守を推測するうえで重要な手掛かりとなるのは、福岡城に残されている天守(大天守)、中天守、小天守の天守台である石垣と、大天守台の内側に残された礎石だ。
残された礎石は合計40個。1つの礎石の中心から隣の礎石の中心までの距離は実測で約2mとなっており、このことから天守は1柱間(柱と柱の間の距離)が6尺5寸(約1.97m)で建てられていたことがわかる。礎石が置かれているのは、大天守の石垣の内側で、天守の建物の地下部分にあたる。天守の1階部分は石垣の上部に建つが、石垣の上部を実測すると東西24.91m、南北22.23m。このことから天守1階の寸法は東西桁行12間、南北梁行11間であったことがわかる。
<参考書籍>
佐藤正彦『甦れ!幻の福岡城天守閣』河出書房新社 (2001)(つづく)
【寺村朋輝】
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