2024年12月21日( 土 )

30周年を迎え、また超えて(12)国際化時代の到来

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ふじ丸 イメージ    さぁ、平成の時代に突入した。「新時代がきた!きた!」と騒ぐだけで「何が変わっていくのか?」とさっぱりわからないのが、凡人。偉人の領域までは達しないとしても、有能な人たちは時代の波動に敏感である。「平成の波動」の核心をつく言葉の1つとして「国際化」が挙げられる。だから企業まわりをしていても、有能な経営者たちは「いまからは国際化の時代、具体的に国を絞れば、中国との接点をどう持つか?」という論議をするようになってきた。

 昭和の終わり(1985年)ごろから付き合いのあった比恵(仮名)は経営コンサルタントの動きに注目していた。知る限りで、この経営コンサルタントは、5社のクライアントの上海進出を指導した。上海に進出した企業を取材したが、どの経営者も「21世紀まであと10数年である。この期間に躍進してみせる」と野望に燃えていた。また比恵の周囲には中国人留学生が群がるようになってきた。

 「きっかけがあれば、まずは上海に行ってみたい」という筆者の思いは、日に日に高まってきた。

上海ツアーへ

 89(平成元)年の2月か3月か、はっきりとした日付は覚えていないが、西日本新聞旅行社が「上海クルージングツアー」の企画を案内していたのを目にした。筆者は「おぉ、これだ」と叫び、「中国の経済拠点・上海に行く千歳一隅の機会が到来した」と確信した。昨今は、「ツアー=観光」という意味合いであるが、この当時は「経済視察団」という色彩が濃い。大半は経済界のメンバーがターゲットだったのだろうが、結果的にツアーの一行の大半は中小企業の経営者たちで占められていた。

 この企画の発端を調べてみると当時、西日本新聞社専務の川村氏が西日本新聞旅行社社長を兼任していた。同氏はかねがね構想を練っていた。「いよいよ中国の時代がやってきた。先陣を切って、福岡の経営者たちを引き連れて船による上海視察団を組織しよう」というプランを練りあげたのである。「飛行機のチャーターでは面白くない」と判断して豪華客船「富士丸」(現名称・ふじ丸)を貸し切っての視察ツアーを打ち出したのである。さすが辣腕・川村氏、時代の波動をつかむセンスは卓越したものであった。

11人と参加する

 「俺1人で参加するのはもったいない。友人たちを誘ってみよう!」と決断した。15人の経営者の友人たちに声をかけたところ、驚いたことに「中国なんかに行けるものか」と断った者が2人いた。残り13人はOKの返事を出してくれた(最終的に2人がスケジュールの調整がつかず、11人となった)。

 視察団は筆者を含め、総勢12人の構成となったが、15人中、13人もの中小企業経営者たちが賛同したことに驚き、時代が大きく変動していることを痛感した。それとともに同様の時代認識をもっている経営者たちが集まっていたのである。

 視察は5月に出発した。この視察の参加総勢は680人だったと耳にした。船中で参加者たちの顔を眺めたところ、大半が経営者・ビジネスマンであったという記憶が残っている。このツアーは船中で2泊、上海で3泊、総計5泊6日であったから参加しやすいという利点もあった。価格も適正であったから参加しやすかったのであろう。このツアー代は自腹である。勤務していた東京経済に費用を申請しても稟議が通らないことはわかっているから申請しなかっただけ。その後の中国ツアーの費用は、すべて個人負担した。身銭を切って行くのが一番、身につくものであることを再認識した(鉄則)。この体験は間違いなく後々、会社の為になったと思う。

船中でのセミナー

 上海までの30時間の船中で、いろいろなセミナーが催された。「上海の治安情報、交通情報」のレクチャーがあった。とくに警戒するようにとアドバイスされたのが「1泊北京ツアー」である。北京では連日、「民主化」を要求するデモが頻発していた。この北京でのリスクについて口を酸っぱくして説明された。
 (補足:筆者らの12人中、5人が「1泊北京ツアー」を選択していた。上海到着の次の日には北京に向かった。夜中になって、筒井(仮称)が顔面蒼白で帰ってきた。「北京の大通りで、デモ隊と警察が衝突しており、治安が崩壊しつつある。現地では『人民解放軍が封殺するために出動してきたら街頭での戦争になり、パニックになる』という噂が広がっているようだ。だから逃げ帰ってきた」と報告する。確かに上海でも「民主化」のスローガンを掲げたデモ隊に何度も遭遇したが、北京と異なり、緊迫感はあまり感じられなかった。)

 我々が帰福してから3週間経って北京・天安門広場で学生・若者が戦車にひき殺される大虐殺が強行された(政府の公式見解では319人の犠牲者が出ているが、英国の外交文書などは1万人が殺されたとしている)。恰好良く「時代の波動をつかむ」という表現を使ったが、我々はとんでもない中国人民の虐殺に立ち会ったのである。89年6月をもって中国共産党政権は「経済を躍進させながらも、共産党支配は揺るがない」という方針を鮮明にしたのである。天安門事件 イメージ

    船中セミナーの話に戻る。甘栗屋(ヤマダ屋)の関係者が「都市・上海事情」を懇切丁寧に説明してくれた。この一世を風靡した「ヤマダ屋」さんは、このころが絶頂であった気がする。船中、場が緩んでくると「げな」話が弾んでくる。一番、話題になったのは「福岡玉屋の社長が参加されている。娘さんが同行されているが、最近婚約されたらしい」というものであった。この娘夫婦とは現在も付き合いがある。

(つづく)

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