2024年12月11日( 水 )

【ライバル比較】近代福岡の発展に尽力した太田家の歴史(2)

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 今月4日、元衆議院議員の太田誠一氏が逝去した。太田家は、明治から昭和にかけての福岡経済発展の礎を築いたことで知られる。とくに九州勧業(株)の基盤を作った4代目・太田清蔵氏(誠一氏の祖父)は、福岡市のインフラ整備に尽力した。その清蔵一族は、福岡と東京に分かれ、対照的な道を歩んでいる。

実業家の傍ら、美術保存にも尽力

 4代目・太田清蔵の一族は、5代目の清蔵ら多くが東京に居を移したことを、前編で紹介した。ここで、4代目清蔵氏の4人の息子の経歴に簡単に触れておきたい。

 4代目清蔵の事業を継承して5代目清蔵となったのが、長男の新吉氏。次男の太田辨次郎氏は1961年から東邦生命の社長を務め、77年に会長に就任している。三男の凱夫氏は、九州勧業の社長を務めた。誠一氏や、ホテル日航福岡会長・輝幸氏の父・清之助氏(四男)は、博多大丸の会長を務めている。清之助氏の妻・俊子は商工大臣や大蔵大臣などを歴任した櫻内幸雄の三女で、誠一氏の歩みは、祖父だけでなく母の血縁も影響したと思われる。

 5代目清蔵は、藩校に淵源がある県立修猷館中学を卒業後、東京帝国大学に進学した秀才で、修猷館在学中に、同期で洋画家となる児島善三郎らと、絵画同好会をつくるほど西洋絵画に熱中している。ちなみに、児島善三郎は、当社の隣に本社がある児島洋紙(株)の第9代当主・児島善一郎の長男である。

 だが、父・4代目清蔵の反対があり、画家の道を断念したといわれる。興味深いのは、実業界に身を置いても絵画への情熱を失わなかったことである。

 戦前、欧米の金融・保険業を視察したことがある5代目清蔵は、日本の浮世絵が多数海外に流出したことを憂い、歌川広重の「江戸近郊八景之内」8枚揃など約1万2000点を自費で集めた。これらは現在、東京都渋谷区原宿にある太田浮世絵美術館でみることができる。

 話を戻したい。5代目清蔵は、三井銀行を経て、福岡銀行に入り、副頭取も務めている。その後、第一徴兵保険社長、終戦直後の1947年に東邦生命社長に就任し、25年間にわたり社長を務めた。

博多大丸設立の経緯

 1946年に父・4代目清蔵が逝去したが、5代目清蔵は、東京に拠点を移してからも故郷・福岡市の発展に力を注いだ。百貨店の誘致を目指し、京都の呉服屋を起源とする(株)大丸(現・J.フロント リテイリング(株))と共同出資で、博多大丸を設立し、博多区上呉服町(呉服町ビジネスセンター)に店舗を構えた。同店は、1975年に西日本渡辺ビルに移転開業して現在に至る。

 呉服町に博多大丸を誘致したのは、4代目清蔵の代に遡る。4代目清蔵は、戦前、呉服町を博多湾鉄道の起点として計画。起点駅にターミナル百貨店を建築しようと考えた。

 岩田屋が、旧・九州鉄道(現・西日本鉄道)の天神福岡駅(現・西鉄天神駅)に隣接した場所に開業をしており、新規参入を考えた。着工にこぎつけ、地下部分まで完成させたが、戦局の悪化により中断を余儀なくされた経緯がある。

渡辺通と博多大丸 イメージ    博多大丸が移転した西日本渡辺ビルは、西日本新聞会館として知られるが、前編で紹介した渡辺通の由来ともなった渡邉家の紙与不動産が所有している。

 前述したように、現在の福岡で太田家を代表する企業は、九州勧業である。本社は、かつて博多大丸のあった場所から、交差点を挟んだ博多区店屋町に構える。同社は、都心部に一等地を有して安定的な家賃収入を得るビルをもっているほか、大丸の増資で九州勧業の出資比率は下がったものの、現在も一定の株式を有する。

 5代目清蔵の子・6代目清蔵(新太郎氏)も東大を卒業後、ハーバードビジネススクールで学び、1953年、東邦生命保険に入社し、監査役や専務などを経て77年に社長に就任した。95年に社長を退任したが、2年後に東邦生命保険は経営破綻し、祖父と父の功績を潰したと批判を受けた。なお、清蔵の襲名制は6代目で終了している。

 現在は、アメリカの大手金融資本、プルデンシャル・ファイナンシャルグループの傘下・ジブラルタ生命となっている。

ホテル日航福岡とのつながり

大博通とホテル日航福岡 イメージ    福岡で活動しているのは、5代目清蔵の弟の一族である。次男の辨次郎氏は、東京で活動し、東邦生命の社長を務めたほか、九州勧業、帝国ホテルや西日本鉄道の取締役なども務めた。

 九州勧業を継承したのは、辨次郎氏の一族で、子の和郎氏は九州勧業と(株)JALホテルズ(現・オークラ・ニッコー・ホテルマネジメント)の共同出資で、1987年に(株)ホテル日航福岡を設立し、初代社長を務め、博多大丸の会長も務めた。

 現在の九州勧業は、和郎氏の子・禎郎氏が代表取締役社長を務めており、2017年からはホテル日航福岡の社長にも就任している。前述したように、4代目清蔵の3男・凱夫氏は、九州勧業社長を務め、4男・清之助氏も、博多大丸会長を務めている。

 清之助氏の次男・輝幸氏は三井不動産を経て1979年に九州勧業に入社し、従兄の和郎氏を支えた。ホテル日航福岡では常務を経て2004年から社長を務め、2015年から九州勧業の社長も務めて、現在は両社の会長職にある。

 清之助氏の長男・誠一氏は、福岡大学経済学部の教授を経て、1980年の衆院選で当選後、8期にわたって衆議院議員を務めた。一時期、「脱藩」して新進党の結成に参画したが、農林水産大臣や総務庁長官などを務め、現在の岸田派である宏池会の代表代行も務めた。

 現在の政治家は、世襲や家柄が重要視されるものではなくなったが、太田誠一氏は、博多商人に淵源を持つ福岡財界の有力者に連なる系譜ということもあり、政治家としての品格にこだわった人でもあった。結果として、相続した不動産は売却している。

 4代目清蔵が活動した明治・大正期から遠くなるにつれて血縁関係も薄まり、時代の変化に抗うことはできなかった。

 しかし、太田家の歴史を見ていくと、明治以後、福岡市が発展してきた歴史そのものでもある。幾多の先人の情熱が失われることはない。時代は変化しても、故郷・福岡の発展に力を尽くしたいとの思いが、祖父・4代目清蔵の精神から受け継がれたものであったことは間違いない。

【近藤将勝】

政治家が倒れた後、資産の後始末(12月11日加筆)

 太田誠一元代議士が亡くなったことは既報した。同氏の代議士引退時から政治資金流出や、借金の穴埋め問題などがささやかれていた。同氏は4人兄妹であったと言われており、兄妹で相続するビルが4棟あるとも言われていた。その都度、売却していったが、残ったビル(添付写真)が博多区比恵町にあった。だが、そのビルもついに人手に渡すこととなった。

博多エステートビル(博多区比恵町)
博多エステートビル(博多区比恵町)
博多エステートビルに入居する井上貴博事務所
博多エステートビルに入居する井上貴博事務所

 太田家一族には九州勧業(株)という中核不動産会社が残っている。かつての栄光の時代には「太田家か渡辺家」と競い合ってきた。ところが今や渡辺家=紙与産業グループで、事業規模に著しい格差がついてしまった。長期的に見れば「政治に関与しなかった渡辺家の大勝利」という非情な結果が出たということだ。

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