新発見、磐梯山1888年噴火の遺構・遺物(後)

福島自然環境研究室 千葉茂樹

 福島県在住で自然環境問題を中心に情報発信をしている千葉茂樹氏から、7月1日に学術誌に掲載される論文を共有いただいたので紹介する。

報告1―1888年噴火犠牲者の墓―

渡部房市氏    2008年、私は調査で磐梯山東麓の長坂集落を訪れた。住民に1888年噴火の話を聞いていた。すると、渡部房市氏(現在99歳11カ月)が現れ、「案内したい所がある」と言って、私の車の助手席に乗り込んだ。彼の指示に従い、たどり着いたのが、今回の論文の「三ツ屋の墓石群」であった。渡部氏の説明は「1888年噴火の後も、この地域は大正期まで土石流に何度も襲われた。その度に多くの人骨が出た。その骨を拾い集めて、三ツ屋の高台に埋め、人骨の数だけ石を置いた。この墓地は、長坂の人たちが供養のためにつくり管理してきた」であった。しかし、案内された場所は、うっそうとした樹林のなかで薄暗く、さらに腐った落葉で埋め尽くされ、当時の私は半信半疑であった。 

 時は過ぎ、昨年2024年9月11日、私が三ツ屋を車で通ると、墓地の南側のスギ林が伐採されていた。歩いて墓地に行くと、西日が差し込み墓地の全容が見えた。しかも、腐った落葉がきれいに掃除されていた。翌々日、丹念に調査を行い、論文にした。 

 1888年噴火の後、裏磐梯から長坂にかけては「岩と泥の荒野」と化した。地形的にも不安定で、大雨や雪解けなどの際に、これらの岩と泥が再び崩れて、何度も土石流が起きた。治水が完成する大正期まで、大規模なものだけで9度発生した。現在の秋元湖にある堤防はその治水工事の跡である。

 話は戻って、墓石群は、樹林内に切り開かれた長径11mほどの小判型の平地にあり、丸い石の集団が4つある。石が丸いのは、骨が出た場所(河原)から石を運んだためである。1つの墓石群には「竿石」があるが、銘などは彫られていない。

報告2-長坂の霊璽―

 2013年、再び長坂に行くと、また渡部房市氏に出会った。この時も、渡部氏は三ツ屋の墓石群を案内した。さらに、渡部氏の自宅に戻り、彼が所有している磐梯山1888年噴火関係の資料を見せられた。そのなかにあったのが、今回の霊璽である。霊璽とは神道の供養塔で、仏教の位牌に当たる。その霊璽は、高さ約22cmの木製で、水晶の結晶のような形(六角柱状)である。この霊璽は、1888年噴火災害で家族全員が死亡した渡部熊平家のもので、親戚の房市氏が保管している。各面には、墨筆で「おくりな」が書かれている。2013年でも125年前のもので、肉眼では読み取れなかった。このため、赤外線写真を撮り、文字を読み取った。5面の死亡日時は、1888年7月15日で、磐梯山の噴火当日である。残り1面は、それ以前に死亡した長男のものである。まぎれもなく、磐梯山1888年噴火の犠牲者の霊璽である。

 なお、この長坂は、1888年噴火災害の研究者が多数訪れ、研究調査が繰り返し行われてきた。2005年には、国の機関「内閣府」で、著名な研究者たちが執筆した「1888 磐梯山噴火 報告書」を出版している。しかし、今回報告の遺構・遺物の記載はない。

 なお、この内閣府の報告書は「問題の報告書」で、他の研究者の資料数点を「無許可で使用」(学術学会の倫理規定違反)している。私の資料も無断で使用されたため、内容証明郵便で内閣府へ抗議した。

本報告の意義

 磐梯山1888年噴火に関しては、噴火直後に東京帝国大学教授など著名な研究者やジャーナリストたちが訪れ、多数の報告がなされている。その後も現在に至るまで、著名な学者たちがこの地を訪れ、多数の報告書を作成している。しかし、これらの研究は「出張の調査」で、調査不足や認知不足が見られ、間違いがいたるところにみられる。今回報告の墓石群や霊璽も、これらの学者が見落とした遺構と遺物である。

 こういった研究は、地元にしっかり根を張り、地元から情報収集を行って初めてなされることが多い。私自身、20歳から磐梯火山の調査を行っているが、70歳に近づいて初めてわかることも多い。

 日本各地で災害(地震・火山噴火・豪雨・原発事故など)が起きると、著名な研究者が集結し、短期間にたくさんの報告書が出る。しかし、論文としての「旬の時期」が過ぎると、くもの子を散らすように去って行き、その後の継続研究は行われない。本件もこれに該当するものである。研究の本来の姿は、地に根差したものでなければならない。

 私自身でいえば、定年退職まで別の仕事をしており、研究職ではなかった。このため、時間を掛けて論文を書いている。昨年の論文「磐梯火山南西麓に存在した謎の温泉、『義敷温泉』」も、調査自体は38年前の1987年に行ったが、当時この温泉の資料や史料がまったく見つからず、そのままにしていた。最近になり「裏付けデータ」を発見したので論文にした。私は、今後も自分のペースで論文などを書いて行くつもりでいる。

余談―日本の学術研究の行き詰まり―

 現在の研究職の方々(大学関係者など)は、文科省から「年間の論文数」で評価される。このため、研究職の方は「論文数」を稼ぐのにあくせくしている。突っ込んでいえば、「短期の成果」を追求する研究が多く、「本質」を追求したものが少ない。また、短期で成果の出る研究でなければ、研究費(科研費)を申請しても採用されない。日本の学術研究の行き詰まりがこの点にある。

 なお、評価基準「年間の論文数」を考えれば、論文数が激増するはずであるが、実際には激減している。地質学関係の学会誌を見ても、年間の出版回数が激減し、論文数自体も激減している。要するに、「研究意欲が大幅にそがれている」ということである。

 私は、研究者の評価を「論文数ではなく、論文の『本質』で見極めるべきである」と思う。でなければ、研究の質が低下していく。本質的な研究は、論文にするまでに長い年数が必要である。私は、大学関係者との交流もあるが、「優秀な学生・院生ほど海外に出て行く」と嘆いている。こういった傾向を止めない限り、日本の学術研究に未来はない。

 私は、「研究職でなくて良かった」とつくづく思う。私は、誰にも束縛されないし、自分のペースで論文が書ける。ただし、研究費は「自分持ち」である。上記の「科研費」も何度か申請したが、すべて不採用であった。

(了)

◎本記事で使用した画像は、千葉が「撮影したもの」「作成したもの」「所有しているもの」である。また、渡部房市氏から、本人および霊璽の画像使用の許可をいただいた。


<プロフィール>
千葉茂樹
(ちば・しげき)
千葉茂樹氏(福島自然環境研究室)福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。

(前)

関連キーワード

関連記事