福島自然環境研究室 千葉茂樹
「磐梯高原」「裏磐梯」、この名を聞くと「磐梯山」や「五色沼」を連想し、旅心を掻き立てられます。「高原の爽やかな風」「神秘的な湖」といった印象でしょうか。こんな情景があったのは、1970~2000年ころまででした。確かに、この頃はどこに行っても観光客で溢れていました。当時は、写真のように、五色沼は神秘的な色を湛え、私たちを魅了しました。しかし、今は、その神秘さが影をひそめ、かつての輝きはありません。
2025年9月2日に、猪苗代町から西回りで、磐梯山麓を一周してきました。その様子をお伝えします。
1.野生動物の天国
結論からいえば、「これで観光地?」です。どこへ行っても、雑木が繁茂し雑草だらけです。途中、イノシシに出会いました(写真)。
磐梯山の西側、磐梯町にある星野リゾート磐梯山温泉ホテル(旧・アルツ磐梯スキー場)を車で通りました。ここは、1990年頃に開発されたスキー場とホテルです。磐梯連峰と猫魔連峰の間の広い谷間にホテルが建てられ、東西の山々にスキー場がつくられました。昨年、裏磐梯にある猫魔スキー場とリフトで結ばれ、名称が「星野リゾート ネコママウンテン」に代わりました。
私は、開発工事が始まった90年頃、地質調査で100回程度通りました。開業当時は、施設全般に手入れが行き届いて、「これぞ観光地」といった風情でした。当時は、木の伐採や草刈りがきれいに行われ、南には猪苗代湖、振り返れば霊峰磐梯山が一挙に展望できました。ホテルは、そんな風光明媚なところに建てられていました。最近では、草刈りが行われているのはホテルの周辺だけです。周りは草ぼうぼうです。
2.室町時代に大繁栄した慧日寺
磐梯連峰の西側と猫魔連峰の麓には、室町時代には京都の比叡山と肩を並べるほどの大勢力だった寺院「慧日寺(えにちじ)」がありました。その勢力は強大で、室町時代初期には、僧300・僧兵数千・支配下の寺院3,800と言われています。磐梯連峰と猫魔連峰の山頂まで、関連施設がいっぱい建っていました(画像)。その後は徐々に衰え、明治期に廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。大正時代に寺院として復興しましたが、往時の面影はありません。また、いっぱいあった寺院の跡は一部が発掘調査されています。ただし、残念ながら大半は発掘調査がなされていません。なお、磐梯町には「磐梯山慧日寺資料館」があり、春から秋に開館して、発掘資料などを展示しています。
3.謎の温泉、義敷温泉
星野リゾート磐梯温泉ホテルの北側、ネコママウンテンのゲレンデから約100m森林地帯に入ったところに義敷温泉跡があります。ここは、明治後期から昭和初期にかけて繁盛した温泉です。当時、遠方の名古屋で発行された観光案内書(瓦版)にも掲載されています。詳しくは、私の論文をご覧ください。観光案内書も掲載しています。
論文:磐梯火山の南西麓に存在した謎の温泉、「義敷温泉」(PDF)
この温泉跡は、87年の地質調査の際に見つけていましたが、資料や史料が見つからず、そのままにしていました。最近になり、観光案内書を見つけ、温泉跡だと確信しました。2022年5月に再調査で温泉跡を目指しました。手っ取り早いのはゲレンデを車で登り、そこから約100m歩くことです。実は、ゲレンデが工事中だった90年には、四駆の乗用車で何度も登りました。ところが2022年は、ゲレンデは枯れたススキで覆いつくされ、車どころか徒歩でもツルツル滑って歩けませんでした。仕方なく磐梯山ゴールドライン(後述)に車を停め、古い林道を1時間かけて歩き、義敷温泉跡にたどり着きました。
私の論文にある「義敷温泉」は、明治後期から昭和初期の温泉です。その後、廃業になり、今は痕跡です。その敷地跡の近くには120m×100mの平坦地があります(義敷温泉跡見取図の黄色の場所)。火山地帯には稀な平坦地で、私は「慧日寺関連施設の跡」と見ています(慧日寺挿絵の赤丸の場所)。別の資料には「出湯明神」と名前があります。このため地元の磐梯町に調査を働きかけています。
ここは義敷温泉の廃業以降、人がめったに行かない場所で「幻想的な別世界」です(写真)。私は引き込まれるような心境になりました。ただし、この場所は野生動物がいっぱいいます。私が調査に行った際もツキノワグマが私めがけて走ってきました。私の引き込まれそうな心境はクマの出現で、いっぺんにふっ飛びました。とにかく、日常とはかけ離れた独特の世界です。
4.磐梯山ゴールドライン(観光道路)
磐梯連峰の西側、猫魔連峰との間を通る観光道路です。70年に観光有料道路として開通し、2013年には一般の県道になりました。無料になったせいか、道路管理が行き届いていません。道路脇は草がぼうぼうで、道幅が狭くなっています。道路自体もアスファルトがひび割れ、挙句の果てには道路脇の駐車スペースが谷側に傾いて、落下防止の鉄柵も谷側に倒れています(写真)。1990年代から2000年代は、車の数が大変多い時期がありました。しかし私が行った日には、すれ違った車は数台で往時の面影はありません。
5.裏磐梯スキー場
磐梯連峰北麓に古くからあるスキー場で、私が地質調査を始めた1979年にはありました。当時の磐梯連峰にあったスキー場は、猪苗代スキー場(南南東麓)、猪苗代国際スキー場(東南東麓)、裏磐梯スキー場(北麓)の3つだけでした。また、スキー場はバブル期に急増し、最近になって急減しています。
この裏磐梯スキー場は2000年代初めまでは、管理が行き届いていました。ゲレンデは草刈りがなされ、そのなかを通る道路は整備され、1888年の噴火による爆裂火口まで四駆の自動車で登れました。ゲレンデ下のレストハウスも夏場でも営業していました。夏休みシーズンには、登山者が列をつくって登っていました。
ところが、現在は、ゲレンデはススキが生い茂り、ヒトの背丈ほどになっています。四駆の車でも走れたものではありません。このスキー場も終焉を迎えるのでしょうか。後に出てきますが、東南東麓の猪苗代国際スキー場は閉鎖されています。
(つづく)
<プロフィール>
千葉茂樹(ちば・しげき)
福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。