福岡大学名誉教授 大嶋仁
今から40年近く前のこと、近江の奥座敷と呼ばれる長浜に行ったことがある。旧友を訪ね、彼の家で一泊させてもらった。
その家は伝統的なつくりで、中心に広々した仏間があり、その真ん中に立派な仏壇があった。仏壇といっても先祖の遺灰などなく、ただ蓮如の『御文』があるだけだ。「ほんものの、浄土真宗はこれだ」と唸ったものだ。
彼にそのことをいうと、「日本人は宗教がないっていうけど、ここいらではそうではないよ」と答えた。自分は『御文』は全部ではなくとも、かなり覚えているとも言っていた。
ちょうどそのころ、外村繁の『澪標』という小説を読んだばかりだった。あの小説にも、浄土真宗の開祖・親鸞の影が宿っていたように思う。
真宗といえば、近江だけでなく北陸にも浸透している。石川県出身の西田幾多郎や鈴木大拙の書を読むと、2人とも禅宗の人のように見えて、実は真宗だとわかる。大拙の『日本的霊性』を読めば親鸞の存在が大きく浮かび上がる。西田の『絶対矛盾的自己同一』にしても、その迫り方の熱烈さが禅とはちがう。北陸こそ真宗の地なのである。
そういえば、もう45年も前のこと、私は国際交流基金の派遣でペルーへ行ったことがある。そのとき現地で知り合った綿谷章氏とは、ペルー以来ずっと会っていなかった。ところがつい1年前、向こうから私の居場所を探し出し、わざわざ佐賀県まで会いにきてくれた。以降、時々会っている。
綿谷氏も交流基金から派遣された専門家だった。ペルーでは陸上競技のコーチをしていた。その彼の『ペルーでの愉快な、でも少し壮絶なスポーツ協力』を読むと、彼が福井の出身で、真宗のメッカともいうべき吉崎御坊のすぐそばで育ったことがわかる。
彼の本には求道の精神が見てとれる。個々の選手の性格を見抜いての指導の仕方にも感心したが、それ以上に感動的だったのは、彼がコーチの任務を終えてもなおペルーの片田舎にとどまり、そこで歩行のできない女性にマッサージを施しつつ話を聞いてあげることで、その難病を治してしまった奇跡の物語である。
彼はこれを自慢げに語らない。「目に見えないご縁をいただいた」とだけ言っている。この「ご縁をいただいた」こそ、彼の生まれ育った北陸の宗教風土が生み出したものにちがいない。
では、その真宗、政治とどう関わってきたのか?
親鸞の場合も、その恩師の法然の場合も、国家権力と結びついた既存の宗教勢力の弾圧に遭って流刑の身になっている。組織ではなく、個人の信仰を重んじたからにほかならない。
この考え方は真宗中興の祖と呼ばれる蓮如にも引き継がれ、蓮如は現在の福井県の吉崎を布教の拠点とした。その結果、当時の守護大名から弾圧を受け、それに対抗するかたちで加賀すなわち現在の石川県に、約100年間も続く自治国をつくったのである。
いわゆる「真宗王国」がそれで、日本史において宗教集団がそこまで力をもったことはかつてないし、その後もない。
組織の信心ではなく、個人の信仰を重んじる真宗の姿勢が一大組織を生んだとは皮肉なことである。しかし、その皮肉はいまに至るまで真宗には宿っていないだろうか。
『新約聖書』には、イエスが「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言ったと書いてあるが、カエサルは当時のローマ皇帝であるから、イエスは「神は政治家とは別次元のものだ」と示したことになる。国家権力には従うとしても、権力者に「魂まで売るな」ということなのだ。
法然=親鸞にもその姿勢があったように思う。それが中世末期に真宗王国を生み、近代化の父と称される福沢諭吉の「独立自尊」へとつながると私は見ている。
福沢は表向きは反宗教だったが、蓮如の『御文』を暗唱しているほどの人である。『文明論之概略』には、宗教は「人心の内部にはたらくもの」で、「最も自由」かつ「最も独立したもの」であって、少しも外部から「制御」されず、少しも外部に「依頼」してはならないと書いてあるのだ。彼のなかにも親鸞と蓮如があった、そういって間違いない。
さて、ここまで浄土真宗のことを書いてきて思うのだが、真宗が自治王国を築いたという歴史そのものは、この教団が政治性を帯びていたことを意味する。真宗は権力から宗教を守ろうとしたという意味では「反政治的」なのだが、反国家的な共同体をつくるという意味では政治的なのだ。
その在り方は明らかに創価学会とは異なるし、その母体である日蓮宗とも異なる。地上に「仏国土」をつくることを考えず、「西方浄土」を祈願することで一見して現世とは縁がないようでいて、それでも宗教共同体として現世に君臨しようとしてきたのである。
私には、この浄土真宗の逆説的な政治性がこれからの日本には大切なもののように思える。あの近江での人々の有り様、ペルーで知り合った北陸人の綿谷氏の有り様、そうしたものを日本史から除外することはできない。
(了)








