古城の秋 猪苗代城址の紅葉(城郭見取図付)

福島自然環境研究室 千葉茂樹

 磐梯山の山麓では紅葉が麓まで達し、晩秋の輝きとなっている。最近、ネット上では「土津(はにつ)神社の紅葉」が話題となっている。しかし、地元に住んでいると土津神社以上に紅葉の美しい場所がある。それは「猪苗代城址」である。

土津(はにつ)神社

 この城址は、2つの城からできている。1つは「亀ヶ城」、もう1つは「鶴峰城」である。「亀ヶ城」は、会津若松市の「鶴ヶ城」と対をなす城で、このため「亀」の名が付けられた。このように亀ヶ城は会津にとって重要な城で、会津の東縁の要であった。

 また、鶴峰城は亀ヶ城北側に峰続きで存在する。歴代城主の「隠居の城」と言われている。こちらも字的には「亀」に対し「鶴」である。ただし、古い資料では「つる」は「弦」と書かれており、最近になって「鶴」と書かれるようになった。

磐梯連峰「赤埴山」より南方を望む

 上記の「土津神社」は、会津藩初代藩主の保科正之が祀られている。保科正之は、江戸幕府三代将軍・徳川家光の腹違いの弟である。四代将軍の幼少期には、将軍の後見として実質的に幕府の実権を握っていた。彼は死後も江戸を守るべく、遠方が望める猪苗代の高台「磐梯山の南麓」に墳墓をつくった。ただし、彼には野心がなく、家臣に「自分の死後は業績の記録をすべて破棄するように」と命じた。このため、彼の業績を語る資料は残っておらず、世にあまり知られていない。なお、保科家は、後に幕府から「松平」姓の使用を認められ、現在の会津松平家へとつながっている。

・文献 猪苗代町史編さん委員会(1982):猪苗代町史 歴史編。1206p。山本秀雄(町長)。

猪苗代城をめぐる戦い

 戦国時代の戦史で見れば、猪苗代城は伊達政宗が会津蘆名(あしな)氏を攻略した際に重要な役割をはたした。政宗は隠居して鶴峰城にいた猪苗代盛国を調略し味方にした。盛国は、息子の盛胤が主君・蘆名氏の黒川城(後の若松城)に出仕している隙をつき、本城の猪苗代城(亀ヶ城)を奪取した。これを機に政宗が猪苗代城に入り、摺上原(すりあげはら)の戦(1589年)となった。この戦いで、蘆名氏は滅亡し、会津黒川城は伊達政宗の本拠地となった。

 ただ、その1年後、豊臣秀吉の北条氏討伐の後、会津は蒲生氏郷(がもううじさと)の所領となり、政宗は国替えで仙台に去った。この際、この地は氏郷由来の地名「若松」に代わり、黒川城も若松城となった。

 かくして、亀ヶ城も鶴峰城も会津の戦国攻防戦の重要な舞台となった。

・文献 工藤章興(1966):戦国の戦い 東北・北陸編。155p。学習研究社。

紅葉の猪苗代城址

 写真は2025年11月6、8、9日に撮影したものである。8日と9日には、城の近傍に白鳥が飛来し、田んぼの落ち穂を食べていた。

 以下、順に猪苗代城の城郭見取図に「撮影場所」を示し、写真の解説をしていく。見取り図は西側が上に書かれていたが、見やすいように掲載の図は北を上にした。

猪苗代城(亀ヶ城)見取り図

 なお、猪苗代城見取図は、猪苗代町の小林光子さん所有のもので使用の許可を得ている。余談であるが、小林家は明治初期から昭和中期に大繁盛した商家で最盛期には番頭が7人もいた。猪苗代城址の整備も明治から昭和中期までは小林家が私財で行っていた。また、当時の磐梯山や猪苗代城址の絵葉書の大半も小林商店が発行している。

写真で紹介する猪苗代城址の紅葉

 今回紹介する猪苗代城址の紅葉の写真は、25年11月6、8、9日に撮影したものである。天気は、6日が晴れ、8日が曇り、9日が雨であった。天気、すなわち光線の状態で紅葉の印象が大きく違うので、お楽しみいただきたい。私個人は雨の風情が好きで、写真の選択も9日(雨)が多くなった。

 なお、私は「機動性を重視」する。撮影カメラは、デジタルのコンパクトカメラである。機種はカシオのEX-SC100であり、高級カメラではない。

・写真1「亀ヶ城本丸跡から望む磐梯連峰」

 亀ヶ城の本丸から、北を見たもので、磐梯連峰の磐梯山と赤埴山が見える。赤埴山の紅葉については、10月22日に公開しているので見ていただきたい「紅葉が進む磐梯山、何かおかしい紅葉」。

 写真のように磐梯連峰の山肌は赤や黄色の色彩がなく、すでに冬のたたずまいとなっている。

写真1「亀ヶ城本丸跡から望む磐梯連峰」

・写真2「大手道と枡形虎口の紅葉」

 亀ヶ城の本丸の下から東にある大手道と枡形虎口方向を見たものである。手前が大手道で奥が枡形虎口である。写真の右奥に、かつての冠木門があった。

・写真2「大手道と枡形虎口の紅葉」

・写真3「亀池の紅葉」

 写真3から10は、亀ヶ城の南西斜面を登って行きながら順に撮影したものである。写真3は空堀のなかにある庭園で、このなかに亀のかたちにつくられた「亀池」がある(写真の中央下)。残念ながら、現在は水がない。この池が、江戸期のものなのかの記録はない。状況から考えると、明治以降におそらく上記の小林家により造られたのではないかと推測する。亀ヶ城は、大正期から昭和中期にかけて小林家により管理がなされ、茶店や四阿(あずまや)が多数あった。また、空堀には観月橋という橋まで架けられ、当時の一大観光地であった。
 

写真3「亀池の紅葉」

・写真4「雨に濡れる紅葉」

 写真3の場所から城の斜面を約30m登った所である。写真の右奥が「亀池」である。写真のように、紅葉が雨に濡れて、しっとりと美しい。紅葉の奥に建物が見える。猪苗代町総合体育館「カメリーナ」である。名前の由来は、「亀ヶ城」と競技場「アリーナ」からである。床暖房やシャワーが完備されている。11年3月の福島原発事故の際には、原発周辺から多数の人々が避難生活をしていた。当時を思い起こすと、猪苗代町中心部は、まるで東京のような人混みであった。町のなかは地元の人より避難者の方が多かったように思う。 

写真4「雨に濡れる紅葉」

・写真5「秋の夕日に輝く紅葉」

 秋の夕日に輝く紅葉である。この木は右側に写っている木と同じ木である。光線の状態の違いで、このように見え方が変わる。

写真5「秋の夕日に輝く紅葉」

・写真6「南帯郭(おびぐるわ)の紅葉」

 写真5からさらに坂を登り、辿り着いた南帯郭から振り返って撮影したものである。地面いっぱいに広がる落葉と紅(くれない)に輝く紅葉が何ともいえず美しい。

写真6「南帯郭(おびぐるわ)の紅葉」

・写真7「亀ヶ城本丸の石垣と紅葉」

 写真6の南帯郭から、北方向を見上げた写真である。坂道の上には本丸がある。写真中央に本丸の石垣が見える。 

写真7「亀ヶ城本丸の石垣と紅葉」

・写真8「野口英世の銅像と紅葉」

 世界的に有名な細菌学者「野口英世」は猪苗代町出身で、亀ヶ城にも頭部のブロンズ像がある。この場所は本丸よりやや低く、出丸のような地形である。野口像の視線の先には亀ヶ城本丸、そして磐梯山がある。また、最近まで、日本銀行券の1,000円札の肖像は野口英世であった。 

写真8「野口英世の銅像と紅葉」

・写真9「野口像の後方から南帯郭を望む」

 野口像の南側から見下ろすと南帯郭が見える。紅葉が真っ盛りである。また、地面の落葉も美しい。

写真9「野口像の後方から南帯郭を望む」

・写真10「紅葉の向こうの白鳥」

 写真9の撮影中に「白鳥の鳴き声」が聞こえた。鳴き声の方を見ると、紅葉の合間から白鳥が見えた。50羽ほどいるようで、田んぼの落ち穂を食べているようであった。

写真10「紅葉の向こうの白鳥」

・写真11「亀ヶ城西帯郭から鶴峰城と磐梯山を望む」

 亀ヶ城本丸の北西側には西帯郭がある。写真11は、この西帯郭の北端から鶴峰城址を見たものである。鶴峰城址の台地の上には瑠璃(るり)色の紅葉の木が2本ある。ここには、1970年頃まで、スキーの40m級ジャンプ台があった。瑠璃色の木の右下方向には尾根状の地形がある。これがジャンプ台の残骸である。この付近は、60年代までは冬季の積雪が2m以上あり、ジャンプ台をつくるのに適した土地だった。

写真11「亀ヶ城西帯郭から鶴峰城と磐梯山を望む」

・写真12「鶴峰城址より亀ヶ城址を望む」

 写真11のスキーの40m級ジャンプ台から亀ヶ城方向を見たもの。写真手前の緑の饅頭状の地形が、ジャンプ台の出発点である。写真の中央の左に建物がある。この付近は、亀ヶ城の北帯郭で、2つの城の谷間は空堀である。 

写真12「鶴峰城址より亀ヶ城址を望む」

・写真13「鶴峰城中心部の広場」

 鶴峰城は、隠居した猪苗代城主が住んだ城で、明確な本丸はない。亀ヶ城より古い時代の城とも言われている。別名「弦峰城」というように南北に続く尾根の最大幅は約30mである。写真の場所は、尾根のなかで幅が最大の場所である。私は、冬季を除くと1週間の内5日程度ここに来る。ここには櫓の跡や池の跡などがある。

 また、この峰の東縁には、前出の土津神社に続く参道が南北に続いている。明治期には、桜の木が植えられ、昭和初期まで桜の名所であった。当時の絵葉書には往時の美しい桜が写っている。しかし、地元でも、ここがもともとの土津神社の参道と知っている人はほとんどいない。

写真13「鶴峰城中心部の広場」

 80年ごろ、猪苗代高校の卒業記念でスギが繰り返し植林された。その結果、桜の木はスギに負けて、大半が枯れてしまった。さらに、1984年には猪苗代町に売却され、スギは現在も放置されている。このように鶴峰城には広葉樹が少なく、紅葉は亀ヶ城ほど美しくない。

最後に

 今回、猪苗代城址の紅葉を紹介させていただいた。最近、野生動物、とくにクマが人里に現れて問題となっている。この猪苗代城周辺でも、10日ほど前にクマの出没がニュースで流れた。私は、この地をほぼ毎日歩いているが、クマの気配はない。多分、クマがいっとき通過しただけだと思う。

 なお、磐梯山麓には野生動物が数多く生息している。野生動物は、薄暮と黎明に行動することが多く、この時間に散歩するとキツネによく出会う。本題からはそれるが、闇のなかのキツネの写真をご披露する。写真のように野生動物の目は、夜間は光って見える。これは網膜の後ろに反射鏡があるためである。この光る眼をよく見ると、光り方や目の間隔および野生動物との距離から、種類すなわちクマか否かを推測できる。

薄暮で出会った磐梯キツネ


<プロフィール>
千葉茂樹
(ちば・しげき)
千葉茂樹氏(福島自然環境研究室)福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。

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