画家・劇団エーテル主宰 中島淳一
私が初めて仲代達矢の舞台を観たのはリチャード3世だった。大学2年生のとき、英語劇「ハムレット」でハムレットを演じることになり、膨大な量の英語のせりふを覚えるのに必死だったころのことだ。演出家のアルマ・グレーヴス教授に誘われて、一緒に観劇した。リチャード3世が倒れる最後のシーンは印象的だった。舞台中央のサスペンションライトのなかには倒れた仲代達矢の手首しか見えなかった。
さすがに俳優座の演出は凝っていると感心していると、グレーヴス教授に笑われた。あれは明らかに倒れる位置を、役者が間違えてしまったのだと。うそだと思うなら、明日もう一度観てごらんなさいと言われ、翌日また観に行った。はたして、仲代達矢演じるリチャード3世が倒れた位置はサスペンションライトのど真ん中だった。役者が役者として生きるということが、どれほどの重さなのかを思い知った瞬間だった。
仲代達矢という俳優は、その問いを生涯、身体の奥深くで抱きしめ続けた人ではなかったのか。その歩みは、決して華美ではなく、しかし燦然(さんぜん)として揺るぎがなかった。炎を胸に閉じ込めたまま、外へ向けては静かに、ただ静かに、呼吸をする古代の預言者のように。
彼は太平洋戦争という時代の断崖から歩みを始めた。極限の死の影を間近に経験し、人間というものの脆さを知り、それでもなお捨て難い人間の尊厳を、一度として忘れはしなかった。彼の演じる人物は、たとえ憎悪と怒りに満ちていても、美しかった。眼に品性があった。たとえ絶望の底に沈んでいても、生命力の光が見えた。天性の深く響く声は格別だった。
しかし彼の演技は、恵まれた声による誇示ではなく、肉体の奥底に沈んだ遠い記憶の震えが、そのまま表層に立ち上がってくるものだった。演じることは人生の光と影を思い出すことである。その言葉を胸に秘めたまま、彼は決して語らなかったが、彼の演技のすべてがそれを物語っていた。
黒澤明との邂逅は必然であり、運命であった。『用心棒』『椿三十郎』『影武者』『乱』。カンヌ国際映画祭でグランプリをとった『影武者』では一波乱があった。最初、主役は勝新太郎だったが、アドリブを好み、その場で変幻自在に演じる勝と緻密な構成のなかでの匠の演技を求める黒澤ではそりが合わず、仲代に声がかかる。
そこにいた仲代は、ただ俳優として出演しているのではなかった。人間という存在の裂け目、実存をそのままスクリーンに開示していた。黒澤は、光と影で世界を描いた。仲代は、光と影の狭間で人間を演じきった。映画史において、彼の眼差しほど深くて重い沈黙をたたえた俳優はまれである。
言葉が発される以前に、観る者はすでに、彼の内奥にうごめく苦悩と痛々しいまでの祈りを理解できた。説明の要らない演技。計算では決して届かない深い存在感。彼の演技は、人間の沈黙が芸術になり得ることを証明してみせた。
特筆すべきは西部劇ジャンル・イタリア制作の映画にも出演したことだ。仲代はこの作品で ジェームズ・エルフェゴ/James Elfego という強烈な悪役を演じている。仲代の悪役ぶりは存在感が強く、メキシコ系現地人に見えると話題になった。
映画が半永久的に残る記録であるなら、舞台は未来には残らない現在の束の間の生である。仲代は、その生をいつまでも裏切らなかった。舞台上に立つ彼は、一本の直立した美しい生命の樹であった。せりふは声帯からではなく、身体全体から発せられた。背筋を伸ばしたまま、ただ存在するだけで、観客席の空気は震えた。
俳優とはそこに自然に立つことなのだと理解させる力をもっていた。彼の発声は、技術ではなく、深い祈りに近かった。息を吸い、息を吐き、声を出す。ただそれだけの動作に、全人生、全人格が凝縮されていた。その舞台上の姿を目撃した者は皆、俳優という職業の厳粛さと尊厳を生涯忘れなくなる。
仲代は、自分のその芸を自分のなかだけに閉じ込めてはいなかった。1975年に演出家である妻の宮崎恭子と始めた「無名塾」は、真の俳優魂の可能性を次代に手渡すためにつくった聖堂である。無名塾の早朝から夕方までの稽古は、過酷なまでに厳しいことで知られる。だが、その厳しさは、技術の鍛錬ではなく、心を透明にするための修行でもあった。
かつて私の大学時代の後輩Sが難関といわれる無名塾の試験に挑んだ。1番大変だったのは、ただひたすら30分笑うという試験。後日死ぬかと思うほど疲労困憊(こんぱい)したと語った。無事入塾をはたしたが、そこには仲代が期待を寄せる若い役所広司と神崎愛がいた。
Sは2人の豊かな才能に圧倒されたという。Sはその後、無名塾をやめて、俳優に英語のせりふを教える指導者になった。今もNHKのドラマなどで活躍している。プロの俳優になるためには容姿・才能・知性の3つの条件が揃っていないと難しい。とくに知性を磨き続ける意志と心構えが肝要だ。ここでいう知性とは学識のことではなく、他人を理解する力、自分自身を省みる力のことである。
舞台や映画で主役をはる俳優は虚栄に溺れることもあるだろう。自己愛に沈むこともあるだろう。だが、仲代はそうはしなかった。演技とは人間を信じることだ。その思想は、無名塾の空気のなかに、今も生きている。塾生たちの目のなかには、仲代が生涯絶やさなかった人を敬う姿勢が息づいている。
演技とは、自分の個性を誇示することではない。人間の痛みと苦悩に寄り添い、共に生きる行為なのだ。苦しみ、愛し、喪失し、赦され、なお赦し切れず、それでも、立つ。仲代は立ち続けた。舞台が、仲代のしなやかな鋼の肉体を必要とする限り。
人はいつかは死ぬ。肉体は老いる。いかなる名優も逃れることはできない。その当たり前の終着点に、仲代は静かに向かった。しかし、彼が舞台に残した立ち姿は、死によって消えることはない。その姿を観た者は、その声を聞いた者は、その沈黙を感じた者は、皆、胸のどこかに一本の心柱を得る。
それは、人間は誰しも心から望むなら真実を深く生きることができるという確信である。仲代達矢は、俳優である前に、人間の尊厳と品性を体現した人だった。その歩みは、今後も、映画のなかに、舞台の記憶のなかに、そして、無名塾の若者たちの呼吸のなかに、永く受け継がれていくだろう。
人は死ぬ時、その人が生涯かけて身にまとった役をそっと脱ぐという。しかし仲代はきっと脱がずに往ったに違いない。仲代の身体に刻印された声と記憶はもはや役ではなく、まぎれもない人間の尊厳そのものだったからだ。天はそれを知っていた。だから神々が仲代を呼んだのだ。高く、遠く、透明な天界の舞台へ。
劇場の闇のなかで激しく手が打ち鳴らされる。それはもはや称賛ではない。別れの儀式でもない。それはただ、仲代が戦後焼け野原になった東京で、父を亡くし、ぜんそくで苦しむ母を支えながら、俳優を目指し、ついに92歳まで現役のプロとして生きぬいたことは、「この地上は生きるに値するすばらしい世界だ」と肯定するのに十分であったという人類からの熱い返歌である。
その響きは今も仲代の胸に静かに共鳴しているに違いない。仲代達矢は去った。しかし、彼が残した高みはこれから世界の名も無き俳優たちが辿らねばならぬ茨の道である。今日もまた、神々の集う天界の舞台で、仲代はゆっくりと背筋を伸ばし、静かに息を吸い、一言、こういうだろう。「さあ、始めよう」と。
そしてまた、新しい舞台の幕が開く。永遠の光のなかで。








