【トップインタビュー】創業者から受け継ぐ精神と新時代に対応する100億円企業への道筋

三共電気(株)
代表取締役社長 木原和英 氏

 創業50周年を迎えた三共電気(株)の歩みには、創業者の精神と時代に合わせた変革がある。1975年の創業以来、「お客様第一主義」を掲げて地場に根を張り、取引先1,000社を超える電材卸の総合商社に成長。福岡を拠点に九州・沖縄へと営業網を広げた。創業者の精神を受け継ぎつつ、現社長・木原和英はトップダウン型経営から現場主導への転換を進め、IT導入と働き方改革で効率化と自主性を両立させている。そして人材を軸に、100億円企業への挑戦を続ける。
(聞き手:(株)データ・マックス 代表取締役会長 児玉直)

創業の精神を忘れず
創業者の思いをかたちに

三共電気(株) 代表取締役社長 木原和英 氏
三共電気(株)
代表取締役社長 木原和英 氏

    ──御社は創業以来、福岡で顧客の厚い信頼を積み上げてこられました。

 木原和英氏(以下、木原) おかげさまで、当社は創業から今年で50周年を迎えました。1975年に先代の創業者・出口守(2021年逝去)が「三共電気商会」として個人創業したのが始まりです。その後、1976年に(有)三共電気商会を設立し、86年に現商号で株式会社に改組しました。

 創業以来「お客様第一主義」を信条に顧客満足度の向上を常に心がけています。また、取引先も大手メーカーや地場企業など1,000社以上にのぼり、共存共栄の精神で、仕入先メーカーと密な情報交換を行って、顧客の役に立てる体制構築を行っています。

 現在当社拠点は福岡市西区福重の本社のほか、福岡都市圏を中心に南営業所(福岡県那珂川市)、東営業所(福岡県粕屋町)、筑豊営業所(福岡県飯塚市)、朝倉営業所(福岡県朝倉市)そして2015年7月には沖縄営業所(沖縄県沖縄市)を開設しました。また、営業活動は福岡県下を拠点に九州・沖縄へと幅広く展開しています。

 このように電材卸売の総合商社として事業を続けてこられたのも、お客さま、仕入先メーカーさま、そして社員やそのご家族の支えがあってこそだと感じています。

 ──本社玄関に創業者の銅像があります。昨今なかなか珍しいですが、銅像をつくった経緯について教えてください。

 木原 創業者が亡くなる前に、「俺が死んだら銅像でも建ててくれよ」と冗談めかして言っていました。最初は冗談だと思っていましたが、家族からも「(会長が)つくれと言っていたよ」と言われたので、つくることにしました。ちょうど会社も創業50周年の節目を迎えるタイミングですので、これも1つの区切りだと思ったのです。

創業者・出口守氏の銅像
創業者・出口守氏の銅像

    ただ、銅像の制作はけっこう大変でした。全国の銅像の9割近くがつくられているという富山県高岡市のメーカーでつくってもらったのですが、写真だけを基に立体化するのはほぼ不可能なので、粘土原型の段階で直接見に行きました。そして現場に行った家族の意見だけでなく、会社にテレビ電話をつないで社員たちを集め、原型を見せながら「ここが違う」「ここを直してほしい」と意見を出し合って修正していきました。

 完成まで本当に苦労しましたが、「あと10年もすれば創業者の顔を知らない社員ばかりになる」と考えたときに、「創業者はこういう人だった」という証を残しておくことは、創業者の思いを伝える一環として意味のあることではないかと思っています。

経営哲学の転換
トップダウンから現場主体へ

 ──創業の精神を引き継ぎつつも、経営面では変えるべきところは変えるという方針で、「昭和のやり方」からの脱却を進めておられるそうですね。

 木原 創業者はとてもリーダーシップの強い人で、完全なトップダウン型の経営でした。当時はそれが最も効率的なスタイルだったと思います。でも、今の時代には合わなくなっています。私は同じことをやる必要はないと感じていて、むしろ組織として分担して動くほうが良いと思っています。

 私は現場と情報を共有しながら方向性だけを示して、具体的なやり方は社員に任せています。私が口を出さない分、社員には責任を自覚して果敢に行動してほしい。会長が強いリーダーシップを発揮していたころは、「どうせ会長がいうだろう」と考えて自分から動かない癖がついていたことも否めません。しかしこれからは、上からの指示を待つのではなく、自分の頭で考えて動く文化に変えていきたいと思っています。正直、トップダウンのほうが社員にとっては楽かもしれません。でも、それでは人も組織も育たない。私はあえて“任せて見守る”ことを大切にしています。

 ──最近の若い社員への向き合い方については、どのように考えていますか。

 木原 最近の若い人たちは「金銭的な見返りだけが働く理由ではない」と言われますが、まさにその通りだと思います。給料を上げても、それだけでは成果や工夫に結びつかない。その点でも、社員1人ひとりが自分の頭で考えて行動できるように、責任と権限をセットで委ねることが大切だと考えています。

大手顧客開拓と資材高騰あるも
躍進の原動力は人の力

 ──御社の売上はここ数年で急拡大しています。その要因を教えてください。

 木原 前期(2025年5月期)が83億円、その前が73億円。数年前は40億円台でしたから、ほぼ倍増です。大きな要因は2つあります。

 まず1つ目は、大手企業との取引開始です。創業者は大手企業との取引に積極的ではなく、その結果、以前は街の電気屋さんとの取引ばかりでした。でも、これ以上成長するには「もう大手に行くしかない」と判断して、私自身から大手への営業を始めました。最初の数件をきっかけに、社員にも営業を任せたところ、一気に取引が拡大しました。

 2つ目は、資材価格の高騰です。とくに電線などの銅を使う商品は数倍近くまで上がりました。増収分のうち約20億円程度は資材の値上がりによるものだと見ています。本来なら当社のキャパシティは60億円程度だと思いますが、営業所の拡充(沖縄・朝倉)や営業マンの増加などが重なって、結果的に80億円台に到達しました。

 ただ、どれだけ売上が上がっても、やはり一番大事なのは「人」です。長年勤めてキャリアを積み、顧客から信頼を得ている社員たちが会社の土台を支えている。10年、20年、30年と勤めている社員が多いことが、何よりの強みだと考えています。ここを大事にすることがこれからの展開を考えるうえでも重要だと思っています。

 たとえば、数年前に熊本のTSMC関連の仕事の話がきたこともありました。非常に魅力的でしたが、対応のために社内に専門部署を設ける必要があり、社員の負担が大きくなると判断してお断りしました。一時的な売上を追うよりも、社員が安心して長く働ける環境を守るほうが大切だと考えたからです。私は「無理をさせない成長」を選びたいと思っています。

本社社屋
本社社屋

働き方改革と
ITによる業務効率化

 ──働き方改革についても、積極的に取り組まれているとうかがいました。

 木原 15年前と比べると、会社の雰囲気は本当に変わりました。昔は「上司が帰らないと帰れない」「残業しているほうが頑張っている」みたいな空気がありましたが、今はまったく違います。社内のパソコンは午後8時に自動的にシャットダウンしますし、定時の午後5時半にはほとんどの社員が帰ります。完全週休二日制も導入していて、有給も積極的に取れるようになりました。しかし、「お客さまから今日中に頼まれた仕事を放って帰るのは違う」とも伝えています。大事なのはメリハリです。頑張るときは頑張り、早く帰れるときはしっかり休む。そういう働き方を定着させています。

 また、ITの導入も大きいです。昔はポケットベルの時代で、現場の人を探すのに1時間かかることもありました。それが今ではスマホ1つで即座に連絡が取れ、現場にも迷わずたどり着ける。また、分厚い価格表をめくって見積もりしていたのも、今はタブレットを使ってその場ですぐ見積もりが出せます。以前は3人でやっていた仕事を今は1人でこなせるようになり、業務効率が格段に上がりました。結果として売上が伸びながらも、残業が減り、休みが増えた。会社全体が“商店の集合体”から“メーカー的な組織”へと進化してきた実感があります。

業界の課題
支払いサイトとM&Aの脅威

 ──業界全体での課題については、どのようにお考えですか。

 木原 まず「支払いサイト」の問題です。手形の廃止によって、約700社のうち300社ほどの集金先への訪問が不要になるというメリットはあります。ただ、ある企業は支払い期間を短縮してきているのに、他方では「でんさいにする」と言いながら、実際には100日を超えるサイトを継続しようとするケースもあります。業界全体で改善に向けて動くべきだと思います。

 もう1つの課題は、M&Aの波です。東京や大阪の大手電材業者が九州に進出してきていて、価格競争がどんどん激しくなっています。とくに大阪の業者は価格が安いので、叩き合いになると非常に厳しい。独立系がどこまで踏ん張れるかが問われています。

 また、人材確保も簡単ではないですから、最終的にはM&Aも選択肢に入れておく必要があると考えています。メーカーも販売ルートを細らせたくないですから、もし九州の有力企業が経営難になれば、メーカーの傘下に入るケースも今後出てくるでしょう。

 ──沖縄営業所の展開についてもうかがいます。立ち上げ時にはご苦労があったそうですね。

 木原 社長になってすぐのころに開設しました。先代から「勝手にやれ」と言われたので、ある意味で自由にやらせてもらいました。当時、沖縄市場が急激に伸びていた時期で、地元の電材屋さんの対応が悪いとか、時間にルーズだと聞いていましたし、取引先からも進出を歓迎する声がありました。沖縄は外部の人間に対して慎重です。強い結束文化があって簡単にはなかに入れない。しかし、「福岡スタイル」でサービスすれば勝てると思ったのです。

 でも、1つ大きな読み違いがありました。沖縄で扱う大型の特殊電材は、現地では決められず、ほとんどが東京や大阪の本社で決まってしまうということです。だから、現地で受注を取ろうとしても実際にはほとんど発注がない。今は主に大手企業の出先機関との取引で事業を維持していますが、売上はまだ4億円程度です。

人材と未来の目標

 ──今後の目標と展望を教えてください。

 木原 まず、創業者が生前掲げていた「売上高100億円企業」という目標を、自分の代で実現したいと思っています。会社のキャパを考えると簡単ではないですが、資材高騰の追い風も利用して、まずは80億円台を安定的に維持したい。たとえば、現在少しずつ関西市場への進出を進めています。私が「自分だけで動ける範囲」で大阪方面でも営業活動をしています。大阪は万博やIR開発など需要が大きく、私自身の人脈を生かして数億円の売上を上げています。利益も出ていますし、今後顧客が少しずつ増えれば、人を送り込んで本格的に展開したいと思っています。これは、福岡に県外大手が入ってくる動きへの一種の対抗策でもあります。

 人材面では、地元の中小企業では男性の新卒採用がなかなか難しいという課題もあります。しかし、当社は軟式野球チームをもっており、大学や社会人野球などの人脈が採用につながっている面があります。20人程度の社員が選手として元気に活動しており、1部リーグでの優勝経験もあります。彼らはとても結束力が強くて、仕事でもすごく頑張ってくれていますよ。そのようにして若い世代に少しずつ経験を積んでもらって、いずれは彼らの世代にバトンを渡せるよう、組織としての基盤を固めていきたいと思っています。

【文・構成:寺村朋輝】


<COMPANY INFORMATION>
代 表:木原和英
所在地:福岡市西区福重1-14-25
設 立:1976年6月
資本金:7,200万円
売上高:(25/5)83億2,396万円


<プロフィール>
木原和英
(きはら・かずひで)
1968年2月生まれ、福岡市出身。87年に三共電気(株)に入社。その後、2003年5月に取締役営業部長、10年7月に取締役常務を経て、13年7月に代表取締役社長に就任。趣味はゴルフ。

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