親しかった政治家の死と高市政権の末路(前)河野洋平という時代

『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏

 先日、河野洋平さんの悲報に接した。ここ数年、かつて親しくしてもらっていた人たちが次々に去っていってしまう。70代を超した立川談志が私にいった。「年取ると話し相手がいなくて寂しい」。私も同じ心境になってきた。
(文中一部敬称略)

新自由クラブで見た政治の裏側

 悲報が相次いでいる。齢80となれば、友人、知人が毎年、毎年、砂山の砂が崩れ落ちるようにいなくなっていくのは仕方ないが、慣れることはない。せめて私にできるのは、その人と交わした言葉や、酒を酌み交わしたときの軽口などを思い出しながら、1人手酌で故人を偲ぶことくらいだ。

 6月8日、河野洋平氏が亡くなった。彼と出会ったのは、私がまだ30代はじめで、政治というものが何なのかまったく知らなかった頃であった。

 1976年に「金権政治打破」を訴えて自民党を飛び出し、新自由クラブを結党し、「新自由ブーム」などといわれていた頃だった。ひょんなきっかけで会った河野さんは、やさしさのなかに頑固さを隠し持った魅力的な政治家であった。

 以来、劇団四季の浅利慶太さんから「もし新自由クラブが潰れたら、君が新自由クラブ全史を書きなさい。君しか書ける人はいない」といわれたくらい入り浸った時期があった。

 河野代表のほかに、田川誠一(副代表、後に代表)。後に路線対立で自民党に復党してしまう西岡武夫。政界の牛若丸といわれた山口敏夫。柿澤弘治(政策委員長などを歴任)。後に文部大臣になる小杉隆。政策論争などというと聞こえはいいが、政治の現場で起きたことを見聞し、実際の政治の裏側を見ることができたのは、私の編集者人生のなかで大きな財産となった。

 日刊ゲンダイ(6月20日付)に河野さんの追悼文を書いたので、紹介しよう。

自民党“最後のハト派”河野洋平さんが亡くなった。享年89。

 彼を語るとき、「金権体質を批判して自民党を飛び出し新自由クラブをつくった」「河野談話で慰安婦の強制性を認め謝罪した」「自民党総裁で唯一総理になれなかった男」といわれるが、私が知る河野さんの素顔について書いてみたい。

 私が河野さんと出会ったのは、新自由クラブができて間もない1976年ごろ。私は週刊現代編集者で、自民党の大物都議の不倫問題を追いかけていた。彼は新自由クラブに鞍替えして衆院選に出るといわれていた。

 ある日、出張校正をしている凸版印刷に劇団四季の浅利慶太さんが訪ねてきて、「河野に会ってやってくれないか」といわれた。東京ヒルトンホテルで初めて会った河野さんは、金権政治で腐りきった自民党批判を熱く語り、件の人間が我々には必要だと説いた。

 私は彼の意気に感じ、その企画をボツにした。以来、新自由クラブに足しげく通い、河野、山口、柿澤弘治さんらと親しくなり、河野さん、浅利さんとで、赤坂の「津やま」で何度も杯を交わした。

 1979年。親しくしていた麻生良方さん(元民社党)から「都知事選に出るから、河野さんに党推薦してくれるよう頼んでくれないか」といわれた。その旨を伝えると、しばらくして河野さんから自宅に電話があった。党としては「ウシオ電機」の牛尾治朗さんを推薦する。大平正芳総理も乗ってくれそうなので、申し訳ない。

 だが、この話は公明党が推す鈴木俊一候補に自民党が乗ることを決め、大平総理との約束は反故にされた。

 当時、河野さんの父・一郎氏(元副総理)が所有し、ナスノカオリ(1971年の桜花賞馬)やナスノチグサ(1973年のオークス馬)などの名馬を輩出した那須野牧場をなぜ、手放したのか聞いてみた。党首が競馬馬をもつことを批判されないためだといったが、本当のところは立党資金や選挙資金を工面するためだったのだろう。

 カネには本当に困っていたようで、“資金調達役”の山口さんと衝突するようになり、事務方は疲弊していた。そこで私に「2人を和解させてくれ」という難題がもちかけられた。私は行きつけの新宿の割烹を借り切り、暮夜、2人にきてもらって、「十分に話し合って仲直りしてくれないか」といって外へ出た。だが、党崩壊への流れは止まらなかった。

「河野総理」はなぜ実現しなかったのか

 復党した河野さんは、ライバルの加藤紘一さんとの確執があったものの、順調に要職を歴任して総裁に選出された。その後、社会党の村山富市氏を総理とする連立政権をつくって世間をアッといわせる。当時、私は浅利さんとたった2人だけの「河野さんを総理にする会」をつくっていた。

 1995年7月、参議院選が行われた。その直前、河野さんの奥さんが急逝してしまう。私と浅利さんは、「選挙応援には行かず奥さんのそばにいてあげたほうが良い」という考えだったので、本人に伝えようとしたが、なぜか、連絡がつかなかった。

 あのとき、自民党が大勝していれば「河野総理」が実現したはずだったが……。

 河野さんのつてで1985年、北朝鮮へ単身で一月行ったことも懐かしい思い出だ。

 私は2020年、河野さんにインタビューしている。

 当時、安倍総理は「改憲は立党当時からの党是だ」といっているがあれは間違い。自分が総裁のとき、後藤田正晴さんに頼んで綱領の手直しをした。「憲法については広く議論をするとだけ入れた。そこで綱領が変わったんです」

 日中関係については、「日本だって、中国とうまくやっていかなかったら日本経済は成り立ちませんよ。(中略)日中間の経済関係は大きくなってしまったから、中国を仮想敵国まがいのいい方をしていたら、日本の経済は潰れてしまう」

 彼の日記帳には『ラ・マンチャの男』のこの言葉が貼ってあったという。

「夢におぼれて現実を見ないのは狂気だ。(中略)一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために闘わないことだ」

 今という時代にこそ、河野洋平という政治家が必要なのに、残念だ。

 ジャーナリストを志す者が出会うのは、善人や聖人ばかりではない。否、その逆の種類の人間たちのほうがはるかに多い。だが、河野さんのような政治家に出会うと、日本の政治も捨てたもんじゃない。政治にもう少し期待してみよう。そう思えた。

(つづく)


<プロフィール>
元木昌彦
(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。

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