秘めたポテンシャルが再評価 春吉&住吉エリア(前)

春吉・住吉エリアを流れる那珂川
春吉・住吉エリアを流れる那珂川

9月にイーストビル再開業
清流公園Park-PFIの整備も進む

26年秋に営業再開予定の「キャナルシティ博多-イーストビル」
26年秋に営業再開予定の
「キャナルシティ博多 イーストビル」

 2026年9月4日、「キャナルシティ博多 イーストビル」が再開業する。
 イーストビルは23年3月、所有する福岡地所(株)によって再開発の計画が発表された。当初は23年5月に閉館した後、解体工事が行われ、その後に商業施設やハイクラス賃貸レジデンス、サービスアパートメントなどからなる複合施設「(仮称)新イーストビル」へと建替わる計画となっていた。だが、24年7月には建設費高騰などを背景として、イーストビルの解体および再開発の計画を当面凍結する方針へと転換。福岡地所では、福岡都心部におけるブランドコンセプトなどを表現できる「大型区画」への出店ニーズが高まっていることに加え、キャナルシティ博多が26年に開業30周年を迎えることに合わせて、イーストビルをリニューアルし、「国内最大級」の旗艦店や、買い物に加えて食や体験型コンテンツまでを含めた複合施設として営業を再開することを決定した。これにより、イーストビルを含めた既存施設を最大限に生かすことで、キャナルシティ博多の開業当初からのコンセプト『都市の劇場』としての機能を強化し、日常を豊かに彩るライフスタイル機能とエンターテインメントを融合させた、多様な人々が訪れる拠点としてさらなる賑わいの創出を目指していく方針だ。ただし、将来的な再開発構想については、エリア全体の価値向上に資する最適な時期と計画について、中長期的な視点での検討は継続していくとしている。

 今回、リニューアルを経て9月4日に再開業するイーストビルは、日常に体験がレイヤーするライフスタイル棟として、「“日常が広がる暮らしの舞台” LIFE STYLE FLAGSHIP & EXPERIENCE」をコンセプトに生まれ変わる。物販11店舗、飲食4店舗に加え、アニメ・マンガのイマーシブ体験が融合した新たなエンターテインメントゾーンを備えた店舗など、全16店舗を集結させており、そのうち4店舗は国内最大の「LOWYA(ロウヤ)」や国内最大級の「LAKOLE(ラコレ)」など、国内最大級の規模で展開する。今回のリニューアルおよび再開業で、イーストビルは「行ってみたい」という期待と来館動機を創出する新たな集客の核として、キャナルシティ博多全体の集客力と滞在価値のさらなる向上を目指していくとしている。

清流公園の南端広場では、ウイング状の象徴的な建物の建設が進む
清流公園の南端広場では、ウイング状の象徴的な建物の建設が進む

 一方で現在、キャナルシティ博多に近接する清流公園でも、福岡地所を代表とするグループによって、Park-PFIを活用した公園整備が進んでいる。
 23年3月に福岡市が行った、Park-PFIを活用した「清流公園整備・管理運営事業」の事業者公募では、福岡地所を代表として、(株)サン・ライフ、(株)エフ・ジェイエンターテインメントワークス、(株)梓設計 九州支社、(株)復建エンジニヤリング 福岡支社、(株)スタジオ・ゲンクマガイ、(株)筑糸建設、安藤造園土木(株)、日新産業(株)で構成されるグループが優先交渉権者に決定。同グループが提案した内容では憩いや賑わいの場の集積と象徴的な公園施設が都心の回遊を促進するとして、キャナルシティ博多に近接する公園南側に、福岡の新たなランドマークとなり得るシンボリックなデザインの施設を配置する。同施設建物は、南北に伸びる大きなウイング状の外観が特徴で、地域イベントから中洲JAZZ等の大型イベントまで開催可能な開放的なイベント広場を中央部に整備し、その広場を挟むかたちで施設建物が配置される。建物屋上部分は階段状のテラス仕様とすることで、平常時は憩いの場、イベント時は観覧席としての活用を想定。施設には、水辺の景色を1日中楽しめるオールデイダイニングやカフェを中心に、公園利用者のライフスタイルの満足度を高めるテナントを誘致予定で、夜間には特徴的な建築デザインを引き立てるライトアップも実施予定となっている。

春吉橋
春吉橋

    また、春吉橋の架替えにともなう迂回路橋を生かした橋上エリアでは、公園利用者を迎え入れる玄関口としてふさわしい、緑あふれる憩いの空間を整備。さまざまなイベントに対応可能な広場空間には、一部稼働式の各種ファニチャーを設置し、川を眺めながら公園利用者が思い思いに滞在できる場を提供していく。さらに那珂川河畔の北側エリアでは、公園利用者の多様なアクティビティが連続して発生する仕掛けを配置。変化に富んだ景色を楽しめる、歩いて楽しい通りに整備していくほか、桜が多く植えられているところには常緑樹を追加し、冬場でも緑あふれる通りにしていくとしている。なお、橋上エリアおよび北側エリアでも、それぞれテイクアウト特化の小規模な飲食店を1カ所ずつ配置していく予定だ。

 現在、福岡地所を建築主とした「清流公園Park-PFI公募対象公園施設その他新築工事」として工事が進んでおり、施工は筑糸建設、設計・監理は梓設計九州支社が担当。大きなウイング状の外観が特徴のシンボリックなデザインの施設建物の姿が、少しずつお目見えしてきつつある。開業時期はまだ明らかにされていないものの、そう遠くないタイミングで開業すると目されており、その暁には那珂川沿いの水辺空間のさらなる賑わい創出に寄与することが期待される。

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 今秋にイーストビル再開業を予定するキャナルシティ博多や、Park-PFIでの整備が進む清流公園が位置するのは、ちょうど福岡市の2大都心部である天神と博多の中間にあたるエリアだ。今回、二級河川・那珂川を挟んだ両岸──北は国体道路、西は渡辺通り、南は住吉通り、東はこくてつ通りに囲まれ、那珂川の西岸に位置する春吉エリアと東岸に位置する住吉エリアの2つのエリアを合わせて取り上げてみたい。公称町別では、春吉1~3丁目、住吉1~3丁目、渡辺通1・3・5丁目となる。なお、住吉エリアについては過去に、本誌vol.32(21年1月末発刊)で美野島エリアとともに取り上げたことがあるため、今回はとくに春吉エリアを重点的に取り上げてみたい。

住吉神社を中心に発展
江戸期の春吉は足軽屋敷街

 春吉と住吉の両エリアの歴史を語るうえで外せないのは、何といっても筑前国一宮(現在の福岡県西部エリアのなかで、最も社格の高いとされる神社)である「住吉神社」の存在だ。

 大阪市住吉区の摂津国一之宮「住吉大社」と山口県下関市の長門国一宮「住吉神社」とともに“日本三大住吉”の1つに数えられる同神社は、全国に2,100社以上ある住吉神社の始祖とされており、正確な創建年は定かではないものの、およそ1800年以上前の創建とされている。同神社の縁起については「古事記」や「日本書紀」にも記載されている。

 奈良・平安期以降も、同神社は国家鎮護の神として尊崇され、重要な役割をはたしてきたという。国家に異変が起こるたびに、時の朝廷から住吉神社に奉幣使が立てられて禍乱の鎮定が祈願されたというが、国内の騒乱の場合は摂津国一之宮「住吉大社」だけだったのに対し、外寇ともなれば筑前国一宮「住吉神社」まで、はるばる勅使を立てて“敵国降伏”が祈願されたという。いかに時の朝廷から重用されていたかが、わかるだろう。平安末期の住吉神社は、広大な神域に加え、さらに広大な荘園を保有していたとされているが、その荘園の総面積たるや、およそ3,000町歩──現在の単位換算で約3,000haというから驚きだ。

 江戸期になると、初代福岡藩主となった黒田長政により、住吉神社の社殿が再建された。この社殿は「住吉造」と呼ばれる神社建築史上最古の特殊な建築様式でつくられ、国の重要文化財にも指定されており、現在までその姿を保っている。江戸期の住吉エリアについては、1812年に写された(原図は不明)とされる城下図「福岡城下町・博多・近隣古図」(九州大学附属図書館所蔵)のなかに「住吉」や「住吉村」の名の記載や説明はあるものの、博多の町や福岡城下と違って、詳細な地図は描かれていない。

 一方、江戸期の春吉については、「春吉村」として住吉村の西側に位置しており、初めは住吉村内であったが、1602(慶長7)年ごろに別村になった旨が、「筑前国続風土記」(原著:1703年成立)に記述されている。また、当時はこの地の田畑を耕作する農民は博多市中に居住していたため民家はなかったが、1639(寛永16)年ごろから、福岡藩二代藩主・黒田忠之が春吉の地を宅地にして、足軽を住まわせたことも記されている。前出の「福岡城下町・博多・近隣古図」では、詳細な地図が描かれていない住吉とは違い、「春吉町」との記載のほか、道路で区切られた街区ごとに足軽屋敷が立ち並んでいる様子が描かれている。

住吉

 余談だが、那珂川に架かり、春吉と住吉とを結ぶ「住吉橋」は、俗に「住吉さんの参宮橋」ともいわれていたが、江戸期には洪水のたびに流され、人々は難渋していたとされる。そこで川の真ん中に人工の島をつくり、水流を二分して橋脚を据えることで洪水に耐える橋を築いたのが、春吉の篤農家・大地主であった稲光弥平(いなみつ・やへい)である。橋の完成は1855(安政2)年で長らく活用されていたが、1930(昭和5)年にRC造の橋に架け替えられたとされ、その際に川中の人工の島は取り除かれたという。なお現在も住吉橋の春吉側のたもとには、稲光弥平の功績を末永く顕彰するための「稲光弥平顕彰の碑」が設置されている。

都市化と住宅地化の陰で
花街の影響もジワジワと

 明治期になると、1889(明治22)年4月の町村制施行によって、住吉村は東中洲の一部を除いた春吉村と合併し、「那珂郡住吉村」となった。その後、96年2月に那珂郡が御笠郡および席田郡と合併して「筑紫郡」となり、1911(明治44)年6月には町制施行によって住吉村が「住吉町」へと変更。22(大正11)年6月には福岡市に編入されることになる。

 この間、春吉・住吉エリアでは、1873(明治6)年に、福岡市でも最古の小学校の1つとして、晴好小学校(現・春吉小学校)が開校。1897年2月に現在のキャナルシティ博多の場所に「博多絹綿紡績工場」(1902年12月に鐘ヶ淵紡績〔後のカネボウ(株)〕博多工場)が開業するほか、1908年9月には博多電灯(株)の住吉発電所が紡績工場のすぐ南側に開業するなど、とくに住吉神社の北西側の那珂川との間で都市化が進んでいった。また、春吉では住宅地としての開発が進んでいった。とくに、足軽屋敷街だった関係で比較的敷地の広い住宅が多かったことで、九州帝国大学の教授らも多く住む高級住宅街でもあったようだ。

 そうした近代化にともなう都市化とは別に、とある要因で町の様子が変化していくことになるのだが、それがすぐ近隣に位置する清川エリアへの遊郭移転だ。

 もともと福岡における遊郭街は、初代福岡藩主・黒田長政によってつくられた「柳町遊郭」として現在の博多区下呉服町にあった。だが、1886年に帝国大学令が公布されたことで九州に帝国大学を設置しようという機運が高まり、その設置場所として、御笠川の対岸にあたる千代エリアが選定されると、「帝国大学のすぐ近くに遊郭があるのは、勉学の妨げになる。けしからん!」という意見が噴出。そこで、当時の福岡県知事が遊郭の移転を約束したことで帝国大学の設置が決定し、1903年4月に「京都帝国大学福岡医科大学」(現在の九州大学医学部)が設置され、11年1月には九州帝国大学が創立された。その一方で、行政による強制移転が行われることになった柳町遊郭は、10年1月に筑紫郡住吉村高畑(現在の中央区清川)に移転。新たに「新柳町」として誕生した。最盛期は定かではないが、30(昭和5)年発行の「全国遊廓案内」によれば、貸座敷約40軒が軒を連ね、娼妓約500人がおり、長崎・丸山(長崎市)や熊本・二本木(熊本市西区)と並んで、新柳町遊郭は九州でも指折りの歓楽街だったようだ。

 そして新柳町遊郭および那珂川を挟んだ対岸の中洲が歓楽街・繁華街として発展していくのにつれて、春吉エリアでも次第に花柳界の人々の家も増加。また、大正中期には「柳橋廉売市場」(現在の柳橋連合市場)も形成されていったようだ。

(左)春吉小学校 (右)柳橋連合市場
(左)春吉小学校 (右)柳橋連合市場

石油転換・バブル・区画整理
春吉に訪れた3つの転機

 終戦末期の45年6月に福岡のまちを襲った「福岡大空襲」では、幸い春吉・住吉エリアへの被害はほとんどなかったとされる。そのため、両エリアは47年1月から行われた「戦災復興土地区画整理事業」の対象地域にも入っておらず、良くも悪くも戦前からのまちの面影を色濃く引き継いでいるといえよう。狭隘で不規則な道路形状や、密度の高い住宅・商店、独特な宅地の形状などは、その最たるものだ。また、空襲で燃えなかったことで、戦後すぐの春吉には、闇市に物を持ち込む各地からの行商人が泊まる行商宿も、多く建ち並んでいたようだ。

 戦後、GHQによる公娼廃止指令を受けて赤線区域(半ば公認で売春が行われていた区域)となった新柳町だが、その後、58年4月に売春防止法が施行されたことで、赤線が廃止。新柳町は後に「清川」へと町名が改正されるのだが、花街・新柳町遊郭の灯が途絶えたことで、近隣の春吉・住吉エリアの活況にも、少なからず影響があった模様だ。

 とくに春吉エリアでは清川や中洲に近い立地から、戦後すぐに券番(芸妓の取り次ぎや花代と呼ばれる芸妓の出演料などを精算する事務所)が置かれたこともあり、一時は住宅街でありながらも、“夜の顔”をもつ花街の側面もあった。そのころの春吉には旅館や料亭などが立ちならび、炭鉱景気で儲かった親分肌の炭鉱主らが幅を利かせ、輪タク(自転車タクシー)で芸妓を送り迎えする姿もよく見られていたという。ポン引き・直引きも数多く街角にいたといい、このころに「ちょっと危ない」「怖いまち」「いかがわしい」というようなマイナスのイメージが定着していったようだ。しかし、石炭から石油へのエネルギー転換を契機として、主な客層だった炭鉱主が来なくなり、料亭の経営が悪化。次第に花街としての春吉は廃れていったという。これが春吉における大きな転機の1つだ。ただし、中洲に近い立地もあって、高級クラブやスナック、バーなどに勤める女性たちが通う美容室が30軒近く立ち並ぶほか、そうした女性たちが暮らすベッドタウン的なまちとして、花街の名残はあったようだ。また、昭和50年代からは歓楽街・中洲の対岸にあたる那珂川沿いではラブホテルが開発されていき、川沿いの通りの景観が変わっていったとされる。

 次に訪れた大きな転機は、昭和終わりから平成初めにかけてのバブル期のころだという。そのころになると、かつての花街の名残だった広い敷地をもつ旅館などが地上げで買い上げられ、そうした場所で次々と建てられていったのが、若者向けのワンルームマンションなどだ。96年4月には、住吉1丁目のカネボウ博多工場跡地で、市内有数の大型複合商業施設「キャナルシティ博多」が開業したこともあり、天神から春吉を経由してキャナルシティに向かう人々の往来が増加。また、さらにその後は、地上げを免れて残った一軒家や古い雑居ビルなどに入居するかたちで、春吉エリアで飲食店などが増えていったという。こうして春吉は、天神や博多に近い立地ながらもリーズナブルな家賃設定で、新たにできたワンルームマンションに若者らが多く住むようになったほか、個性的・隠れ家的な飲食店も増加。“健全な”賑わいが生まれていったようだ。

 そして春吉に訪れた3つ目の大きな転機は、「渡辺通駅北土地区画整理事業」による新たな道路の開通だ。同土地区画整理事業は、地下鉄七隈線・渡辺通駅の北側に位置する渡辺通3丁目の2.5haを対象として行われたもの。都心との近接性を生かした商業・業務機能および都心居住環境を併せもった、快適で防災性の高い複合市街地の形成を目的としており、都心に近接した立地に相応しい、住宅・業務・商業等施設の複合的配置を土地利用の基本としながら、天神から博多方面への回遊性を高める都市計画道路の整備および生活道路を適宜配置していった。同土地区画整理事業は(独)都市再生機構(UR都市機構)が施行し、施行期間は06年3月から16年3月(清算期間5年含む)まで。

「渡辺通駅北土地区画整理事業」による新たな道路の開通が春吉エリアを変えた
「渡辺通駅北土地区画整理事業」による新たな道路の開通が春吉エリアを変えた

 この土地区画整理事業の一環で、「区画道路・渡辺通春吉線」および「区画道路・住吉春吉線」が開通し、渡辺通りからキャナルシティ博多方面までをつなぐ道路が整備された。すると、春吉エリアでは新たな道路沿いを中心にまちが“キレイ”になっていくと同時に、土地価格や家賃も高騰。小規模な飲食店を営んでいた個人事業主が次第に締め出されていく一方で、新規の出店は法人によるものが主となっていった。その結果、それまで残っていた猥雑な雰囲気も次第に薄まっていき、古きと新しき、雑多と洗練された街並みが混在するかたちで現在に至っている。

(つづく)

【坂田憲治】

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