大戸屋お家騒動、第三者委員会の「調査報告書」を読む(後)
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息子の智仁氏を常務にせよと迫る
2つは「世襲の問題」。息子の智仁氏を巡る人事だ。智仁氏は当時26歳。中央大学法学部を卒業し、メインバンクの三菱UFJ信託銀行で2年間勤務を経て、13年に大戸屋HDに入社。死を悟った久実氏は、智仁氏を後継者にすることに執念を燃やした。以下、窪田社長の供述である。
〈14年11月か12月ころに、会長に数名呼ばれた。僕をにらみつけるような感じで「智仁を役員にする」という話があった。僕としても、将来的には智仁氏が担っていくのは会長も望んでいたことだと思うので、抵抗感は全くなかった。しかし、同時に「国内のトップにしろ」と言われたのには「さすがにそれはできない。会社がもたない。(中略)今までプロパーでやってきた人間は納得しない」と言った。そしたら、僕に対してすごい形相だった。あんな顔は初めて見た。
しばらくしてから「であれば、海外だ。海外の責任者をやらせろ」と。そこも、ん?と思ったが、会長のご病気と余命を考えて、「わかりました」と。だから本来の経営判断と違う判断をした。そうしたら「常務にしろ」と。それも、ん?と思ったが、専務・常務は所詮、肩書きなので、どっちでもいいと思った〉
15年6月25日の株主総会で、智仁氏は常務取締役海外事業本部長に就任した。
三枝子夫人が怒鳴り込んできた「お骨事件」
15年7月27日、大戸屋HD会長の三森久実氏が肺がんのため死去した。57歳という若すぎる死だった。告別式の2日後、窪田社長は智仁氏に10月からの香港赴任を内示した。これに三枝子夫人が猛反発。創業家と窪田社長ら経営陣のお家騒動が勃発した。
15年9月8日、三枝子未亡人は遺骨を持ち、背後に位牌・遺影を持った智仁氏をともないながら、裏口から社内に入ってきて、そのまま社長室に入り、扉を閉めた上、社長の机の上に遺骨と位牌、遺影を置き、その後、智仁氏が退室し、窪田氏と2人になったところで、同氏を難詰した。これは社内で「お骨事件」と呼ばれている。窪田氏が当時作成したメモには、こう記されている。〈三枝子夫人は、30分ほどにわたり、窪田氏に対し、「あなたは大戸屋の社長として不適格。相応しくないので、智仁に社長をやらせる」、「あなたは会社にも残らせない」、「亡くなって四十九日の間もお線香を上げに来ない」、「何故、智仁が香港に行くのか」、「私に相談もなく勝手に決めて」、「智仁は香港へは行かせません」、「9月14日の久実のお別れ会には出ないでもらいたい」などと述べた〉
仲介役となったメインバンク出身の河合氏に創業家は不信
三枝子夫人との関係が悪化した窪田社長は、メインバンクである三菱UFJ銀行出身で当時相談役(6月取締役復帰)だった河合直忠氏に仲介役を頼んだ。〈社外取締役の多くは、河合氏について「同氏の説得のロジックは、懐柔するというよりはまさに負の遺産を整理しなきゃ、と言った色合いが強かった。(中略)彼は大戸屋の河合というより三菱の河合だ」〉
功労金の問題も、仲介役の河合氏が功労金の先送りを主張して、支払いは見送られた。社外役員は〈智仁氏は「河合がいるから先鋭化してしまいます」、「河合が会長に復帰する」と言い、間に入っている河合氏に強烈な不信感を持ち、疑心暗鬼になっている」〉と語る。
河合氏は今年5月までに5回にわたる調停を行ったが、最終的に決裂した。9月28日、大戸屋の取締役2人が辞任。うち1人は仲介役を務めた河合氏だ。大戸屋の創業家と経営陣の対立は、10億円とされる功労金問題の解決なくして、解消することはないだろう。創業家は、相続税を支払うために遺産相続した株式を売却し、会社と縁が切れることを最も恐れているからだ。
(了)
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