【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(2)
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
【第一章】僕のジェットコースター人生
点と点はつながる
僕の職業人生を口の悪い友人が「ジェットコースター人生ですね」という。しかも、「ジェットコースターは下りが面白いらしい……」と宣(のたま)う。下りが面白いなんてとてもいえないけれど、「ジェットコースター人生」……僕は結構気に入っている。
受験に失敗することもなく東京での大学生活を終え生まれ育った福岡の市役所に就職した僕には、平凡な公務員人生が待っているはずだった。父が福岡県庁に勤めていたので僕は福岡市役所を選んだ。ただそれだけのことで、公務員という職業に格別な思いがあったわけでもない。山崎広太郎という政治家との出会いで、僕はジェットコースターに乗ることになった。公務員人生を一筋に勤め上げることはなかったけれど、僕だけの軌道を描いたジェットコースター人生は、結構面白くなったし、人生は生きる価値のあるものだとポジティブに受け止めている。
僕はスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式でのスピーチが大好きである。「点と点はつながる」。予(あらかじ)め点と点をつなげることはできないが、振り返ってみると点と点はつながるのである。スティーブ・ジョブズのように生きたというつもりはないが、市井に生きたちっぽけな1人の人生でも点と点はつながるのである。時に熱に浮かされたりもしたが、兎も角も自分の意思でつかみ取ってきた僕の人生、どのようにつながっていったのか、振り返ってみたい。
先を読んで点と点をつなぐことはできません。
後から振り返って初めてできるわけです。
10年後から振り返ってみると非常にハッキリ見えるわけです。
従ってあなた方は、点と点がつながると信じなければなりません。
自分の勇気、運命、人生、カルマ、何でもいいから、信じなくてはなりません。
点がやがてつながると信じることで
たとえそれがみんなの通る道からはずれていても
自分の心に従う自信が生まれます。
これが大きな違いをもたらしてくれるのです。By スティーブ・ジョブズ
第1フェーズ 1975.4~1989.3
博多区保護第一課~妻との出会い
僕は昭和50年(1975)に福岡市役所に採用された。当時はオイルショックの影響で、公務員の門戸は急に狭くなっていた。初任給は7万9,000円だったが、狂乱物価の影響もあって2年前に採用されていた先輩の給料の倍ほどだった。この年の人事院の勧告は9.6%増で、今考えれば途方もない数字だが、1年前の先輩たちは30%を超える増額勧告で、年末に支給される差額がボーナスの額を上回っていたという。デフレが長く続く今の時代からはとても考えられない、空前絶後の時代だった。
最初に配属されたのは、博多区役所保護第一課第一係、生活保護のケースワーカーだった。当時新卒の多くは区役所のケースワーカーや税務関係などに配属されていたと思う。僕は市役所時代を通じて人に恵まれてきたが、最初の職場であるここでも先輩に恵まれた。新人の僕の教育担当は、干支が一回り上の鬼軍曹と呼ばれた主任の中村正博(故人)さんだったが、僕には優しかった。中村さんは、現業から職種変更した苦労人だったが、世の中のこと社会のことを手取り足取り教えてくれた。仕事の中身よりも、「鐘が鳴ったらすぐに着替えて真っ先にソフトボールの場所を取りに行け」、みたいなことが多かったけれど。だからというわけではないが、ケースワーカー4年間の思い出は、仕事では特筆できることはないのだが、ソフトボールやバドミントン、駅伝の練習に明け暮れ、母から「あんたはどこのスポーツクラブに就職したのか」といわれる始末であった。
ここでの最大の事件は、なんといっても妻との出会いである。在職4年目の昭和53年(1978)、福岡市は287日間におよぶ断水という未曾有の大渇水に遭遇していた。高台の住宅地への水のポリタンク運びや大口の需要者の水道メーターの検針などにも走り回っていた。そんな折、妻は新卒では初めての女性のケースワーカーとして配属されてきた。九大出の新卒の女性が配属されるらしいというのは噂になっていたが、配属当日の光景は、今も僕の目に焼き付いている。野郎中心のむさ苦しい空間にぱっと花が咲いたようだった。同期の間ではマドンナと呼ばれていたようだが、恋に落ちるのにそう時間はかからなかった、と思う。ジェットコースターに乗ってもレールを踏み外さず、曲がりなりにも家庭を築き、今日あるのは妻のおかげであることは衆目の一致するところであり、本書の最終章に、彼女の「市役所人生大公開」を掲載することができたのは何よりの喜びである。
都市計画局交通対策課~水と交通
最初の異動先は都市計画局交通対策課だった。当時福岡市の政策課題は「水と交通」と言われており、キャリア形成の基盤としては、順調なスタートだった。当時の交通対策課は地下鉄の開業を目前に臨時交通対策としての時差出勤制度の試行や、変わり種では広州市との姉妹都市締結1周年を記念して、パンダ(シャンシャンとパオリン)が親善大使として派遣されており、その集客交通対策にも追われていた(2カ月で87万人の来場、現在の年間入場者は75万)。
一方、僕の担当は交通安全対策で、仕事は面白くなかった。そうした折、福岡県学生寮/英彦寮時代の一期先輩(僕が2年のとき、1年間同室)で、中央大学の先輩でもある陶山博道さん(のちの総務企画局長だが、寮の幹事長を務め、その頭脳の明晰さとリーダーシップは当時から群を抜いていた。その陶山さんが福岡市役所に入ったので、じゃ僕もという気分だったし、入庁後もケースワーカー、都市開発局、港湾局と後を追いかけ、僕にとって謂わば兄のような存在だった)から本市の区画整理の第一人者であった柴田和也さん、行弘泰晟さんを紹介され、酒を酌み交わすうちに、「姪浜地区を区画整理することになるが、一緒にやらないか」との誘いを受けるようになった。
当時福岡市の西部方面では西新地区再開発事業に着手していたが(同時に東の千代地区、南の高宮地区も再開発事業を着手中)、後背地の広がりや奥深さからして、本市西部の拠点は姪浜地区だろうということは、都市計画局に籍を置くものとしての基本認識だった。また、住宅密集地であった姪浜地区には、立体換地など、これまでにない手法を検討していることも新聞紙上で取り沙汰されており、机上の都市計画にとどまらず、都市計画事業を現場でやってみたいとの思いが沸々と湧いてきて、いつの間にかその気になっていた。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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