2025年01月15日( 水 )

【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(3)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

都市開発局姪浜開発事務所~白紙撤回

 昭和56年(1981)春の人事異動で、高卒ながら41歳で課長級に昇任した柴田さんから指名いただき、都市開発局姪浜開発担当となった。その柴田さんは、後に不幸な事件で福岡市役所を去る(その事件がなければ、高卒としては最後の局長級になっていたはず)ことになったが、僕にとって生涯最高の上司となった。職業人としての弛まぬ向上心や仕事に対する執念ともいえる真摯な姿勢など、僕の職業人としての背中に一本大きな筋を通してくれた。仕事では容赦なく鍛えられたが、何より僕に自信ももたせてくれた。そして一緒によく酒を飲んだ。僕はここでも人に恵まれた。

 しかしこの異動については、いろいろなことを言われた。いわゆる花形ポストだった都市計画局交通対策から、泥臭いと言われた区画整理への異動であり、しかも交通対策課在籍は2年だった。また勤務先は西の外れの姪浜であり、地下鉄も開通しておらず(天神―室見間の開通がその年7月)、東のはずれの香住ヶ丘から姪浜までは時間もかかったし、遠かった。「何かやらかしたのか」「上司と喧嘩したのか」などと散々心配されたし、柴田さんや行弘さんからも「本当にいいのか」と念を押されていた。事務所は当時JR筑肥線姪浜駅そばのオイスカ研修センターの敷地に小さなプレハブを建てていた。アジアからの研修生がたくさんいたし、冬の九州場所には春日野部屋が宿舎を構え、お相撲さんがたくさんいた。敷地の片隅の「犬小屋みたい」だとも言われたちっぽけなプレハブを見て、天神のど真ん中の大きなビルを思えば、不安にならなかったといえば嘘になるが、やりたいことが先だった。

 仕事は大変だった。なんせ課長以下土木職員3人と事務屋は僕1人、しかも現場事務所なので、電気代、電話代、水道代などの支払いもあるが、庶務/経理の仕事の経験はまったくないし、地元説明会などもどんどん仕込んでいたので手が回らず、支払い関係の書類はダンボールに溜め込んで、西区の会計課で1つひとつ教わった。たまたま電話回線の都合で、電話がつながらなくなったときに、電話代の滞納が原因ではないかと冷や汗をかいたほどである。

 その一方で姪浜地区の区画整理は、大橋地区の区画整理が収束を迎えていたこともあり、継続的な国費の獲得の面や区画整理という専門性の高い人材確保の点からも事業の進捗は重要視され、いわば日の当たる仕事だった。組織の人員は当初の56年度の4人から翌年7人、そして11人、さらには21人と増員に次ぐ増員で、事務職員としては、局内調整や総務局相手の機構要求の経験を積み、さらには予算も増額に次ぐ増額、財政局との折衝も一通りやった。機構要求では事業が大変だからと言って人を増やしてもらい、予算要求では事業はどんどん進めるから、あれもいるしこれもいると、あっちでああいい、こっちでこういうという、ある種の手練手管も身につけていった。

 しかし、肝心の事業の進捗は思わしくなかった。オイスカの講堂を借りて百人単位の説明会を何度もやったが、反対の声は大きく、やればやるほど反対が強くなるという感じでもあった。椅子を百以上並べる準備は難儀だが、反対の強かった説明会の後片付けは気が重かった。帰りは痛飲した。3カ月もすると「次の説明会の説明は君がやれ」と柴田課長。「とんでもない。失敗して反対に火がついたらどうするんですか」と抵抗するも「いや、やれ」との一点張り。紛糾する説明会、横で聴いている分には、あれはこう言ったら、これはああ言ったらと思うものだが、いざ自分が矢面に立つと、そうはいかない。口先の屁理屈など一挙に吹き飛んでしまう。当然のように撃沈するが、一職員として得られるものは途轍もなく大きい。現場のリアリズム/経験ほど大きなものはないのだ。間違いなく性根が据わる。柴田課長の一見無茶振りは、自分の経験知を積んでの確信犯だったのだろう。

 その昭和56年(1981)のいつごろだったろうか、市職員として初めての市長決裁を求める「姪浜地区土地区画整理事業の基本方針」を立案した。施行区域を駅の南側83haとすること、減歩緩和のため、さらには小規模宅地対策などのための用地の先行取得に着手することが主な内容だったと記憶する。当時はワープロもなく、決裁文書はすべて自筆だったが、僕は結構達筆だったので、誰が起案したのかも覚えてもらえ、得をしていたと思う。そして市長や助役も出席される政策会議も経験した。当時影の市長とも言われていた武田助役から、「地元の理解を得て進めるように」との発言があったことをぼんやり覚えている。

 一番つらかったのは、戸別訪問だった。最初は2人で回っていたけれど、当時は課長を除けば、職員は係長以下3人で数が捌けないこと、そして僕が慣れてきたこともあって、1人で行かされるようになった。これはつらかった。後ろを向いても誰もいない。すべてを背負わなければならなかった。冬の寒い夜、玄関にも入れてもらえず、しかし話は長引いて、身体が芯まで冷えた。地権者の方も悩ましかったのだろう。玄関に入れてしまえば賛成しているように受け止められ、かといって自分のところはどうなるのか、少しでも聞いておきたい。その狭間で揺らいでおられたのだろうと思う。とくに高齢の年金生活者の相手はつらかった。「とにかく、そっとしておいてほしい」との訴えに返す言葉も無かった。戸別訪問の結果は〇×△で報告しなければならなかったが、不在でも訪問した件数にはあげられたので、不在だと正直ホッとした。インターホンを押しても反応がないので「不在」として処理しようと思いつつ、ついもう一度ピンポンすると出て来られる。そんなときに限って玄関先で1時間2時間ということもよくあった。あの戸別訪問は、僕が役所で体験した仕事のなかで一番つらかったかもしれない。

 昭和59年(1984)、組織体制はいよいよ事業実施に向け、1部2課5係21人に拡充されていた。区画整理事業の大きな節目としての施行区域の都市計画決定に向け、都市開発局長も参加しての連夜の説明会を実施した。都市開発局長の下川與八さんは、温厚篤実な人柄で部下の信頼も厚い人だった。以前同じ香住ヶ丘にお住まいで、息子さんとは小学校の同級生という関係もあって、私の異動を喜び目もかけてくれ、結婚披露宴にも主賓として臨席いただいた。しかし、説明会では激しい反対の声が噴出した。その年の秋には進藤市長4期目の選挙が予定されており、市長選挙への影響も懸念されていた。市幹部の意見は「説明が足りない、理解が得られていない」というものだったが、我々は、「説明は十分行った。地権者は理解していないのではなく、しっかりと理解している、そのうえでの反対の意見である。反対の意見の多くは事業を実施して行くことによって解決できるものが多い。福岡市や姪浜地区の将来を見据えて必要な事業だと位置づけているのだから、粛々と事業を進めていくべきだ」と主張した。しかし、施行区域の都市計画決定を報告する市議会常任委員会の開催前夜、報告案件の取り下げが三役を含めた幹部間で決断された。取り下げ決定の報告を聞いて、僕は大荒れに荒れて、事務所の椅子を投げ、机をひっくり返して暴れた。3年にわたる地を這うような努力が水泡に帰したと思った。今にして思えば、市としてはやむを得ない結論だったと思うが、市長選挙と取引されたようで、悔しくて堪らなかった。僕は若かった。

 翌日から事業は全面ストップ、困った。組織は21人に膨れ上がり、若くて前途有為な人間が集まってきていた。僕は一番在籍年数が長く、年齢も30歳を超え、謂わば兄貴株だった。また事務職としては珍しく土地区画整理士の国家資格も取得していたので、区画整理の勉強会などを始めた。室見川の河川敷が近かったので、昼休みは走った(メンバーで積み立てを始め、翌11月、当時フルマラソンの参加者が全国最多の陸連公認河口湖マラソンを走った)。近くにゴルフの練習場があり、ショートコースもあったので、ゴルフコンペも始めた。みんな酒は好きだったが、時間外がゼロで、飲み代には事欠いていた。誰かが、どこからか、ニラの苗と土をもらってきて、事務所の空き地で育てた。卵だけ買ってきてニラの卵とじを酒の肴にした(ニラは何度でも生えてくる!)。なんとも切ない日々だった。僕は在籍5年目を迎えていたし、もはやそこに残る意味もなかった。そんな折、ある筋から港湾局への異動話がきた。当時「花の港湾」とも言われ、陶山先輩もいた。地行・百道地区の埋め立て地の土地利用計画、土地処分を担当する新設されたばかりの西部開発課への異動であった。
(なお、姪浜地区土地区画整理事業は、4年後の昭和63年に区域を縮小して、都市計画決定され、平成15年度に事業を完了している)

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

(2)

関連キーワード

関連記事