【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(4)
-
元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
港湾局西部開発課~一転、真っ白なキャンバス
バブルの波
昭和61年(1986)4月、港湾局舎は博多区石城町に在り、6年ぶりの天神本庁舎復帰とはならなかった。当時港湾局は、西部と東部の埋め立て事業など、ビッグプロジェクトを抱えていた。
担当することになる地行・百道地区の埋め立ては概成しており(竣功認可はその年9月26日)、人工海浜もその姿を現しつつあった。東区で生まれ育った僕には、百道の海水浴場に馴染みはなかったが、海水浴客で賑わっていたらしい街の痕跡はすっかり消えていた。そしてその3年後の昭和63年(1988)には、福岡市の市制施行百周年を記念して、地行・百道地区で博覧会が開催されることが決まっていた。その昭和63年には、全国で多くの市が市制施行百周年を迎えており、博覧会もあちこちで計画されていた。埋め立て地での博覧会は、昭和56年(1981)に神戸ポートピア博覧会が開催されており、まさに柳の下の二匹目のドジョウを狙いに行ったような受け止めもあり、集客には相当苦戦するだろうとの見立てが多かった。
地行・百道地区の埋め立て免許時の土地利用計画は、どこにでもあるような中層住宅が立ち並ぶなんの魅力もない住宅団地の絵柄だった。そして、当時はプラザ合意後の長引く円高不況のさなか、住宅・都市整備公団(当時)や市住宅供給公社には塩漬けの土地がたくさんあり、友人や先輩たちからあんな膨大な埋め立ての土地が売れるわけがない。お前はとんでもないところに異動したと同情されていた。しかし、姪浜地区の区画整理が多くの地権者の意向で一歩も足が踏み出せなかった一方で、漁業補償が終わったこの埋め立て地には地権者がたった1人、福岡市のみ。いわば真っ白なキャンバスを与えられたようなものだった。その解放感/快感にも似た感覚は忘れられない。
そして、前年昭和60年(1985)に始まったとされるバブルの波が福岡市にも確実に押し寄せつつあった。埋め立て地の土地需要の様相は一変して行く。まさに売り手市場、毎日のように東京方面から来るお客さんの案内に忙殺された。港湾局の船で博多埠頭を出て、地行・百道地区の埋め立て地先の人工海浜を掠め、小戸のヨットハーバーを経由して戻ってくるのが定番の案内コースだった。首都圏の海に比べれば博多湾は遙かに美しかったし、地元の僕たちの目から見ても、誕生しつつあった人工海浜やその背後の土地は大きな可能性を感じさせてくれていた。どの土地需要者も、人工海浜を含めたロケーションを絶賛していたし、その土地が福岡市の中心市街地である天神地区に近接していることから、本市の新たな開発拠点としての期待と可能性が急速に大きく膨らんでいった。ここでは、時に恵まれた。もはや問題は、売れるかどうかではなく、福岡市の新たな開発拠点としてどんな絵を描いて、それを実現するために誰に売ったらいいのかだった。しかし、住宅用地を中心にした土地利用計画の大幅な転換が必要である一方で、市民の大切な共有財産である博多湾を埋め立てて生まれた土地であるため、絵の描き方、売り方は難しかった。
そのころの土地の需要は、処分可能面積の4倍を超えていたと記憶する。殺到する土地需要者を前に現場は大変だった。このころの残業時間は、月に200時間を超えていた。土曜も日曜もなかったので曜日の感覚もなくなっていた。夜の10時頃に終わると夕方みたいな気分でよく中洲にも繰り出した。時間外手当の予算はなく、なんと7割カットだった。
神戸市と福岡市
住宅地を含めた埋め立て地の先行事例は、神戸のポートアイランドや六甲アイランドであり、多くを学んだが、彼の地に人工海浜はなく、開発地域としてのポテンシャルは地行・百道地区がはるかに優位であったと思う。ここで、神戸市と福岡市の埋め立ての違いを述べておこう。神戸市はかつて神戸株式会社と言われたほど都市経営に格別な力を発揮し、全国各都市から注目される存在だった。当時の出張先は、群を抜いて神戸市が多かった。その神戸市での埋め立ては「山、海へ行く」と言われていた。
なぜか?神戸の海は水深が深く、大きな船が寄港しやすい地形ではあるが、船が寄りつく埠頭を建設して行くために、大量の土砂を運んで埠頭をつくることが必要だった。そこで後背地である六甲山系の山を崩し、土砂をベルトコンベアで海へ運び、埋め立て、港と街をつくっていったのである。とてもわかりやすい。一方博多湾は水深が平均7mと極めて浅く、船舶の大型化に対応するためには、大型船が寄りつけるように航路を浚渫しなければならない宿命にあった。その浚渫土砂の行き先が埋め立て地だった。海に開かれた福岡市が市経済の4分の1を担う港湾物流の拠点である博多港を充実させる一方で、海を埋め立てることによる環境問題、その結果として生じる埋め立て地の土地利用と土地の処分問題は、本市の都市政策展開の大きな要石だった。
なんで、「シーサイドももち」なの?
地行・百道地区の埋め立てが竣工し、街の愛称名をつけようと局内で愛称を公募し、選考委員会を立ち上げた。地行・百道地区の愛称は、福岡随一の文教地区である「百道」は絶対に外せないとハウスメーカーさんたちから言われていた。しかし問題があった。地行・百道地区は、樋井川を挟んで、東が中央区地行の地先であり、西が早良区百道の地先であった。「百道」では中央区が納得しなかった。
そこで名案が浮かんだ。「百道」を「ももち」とし、「もも」は百道のもも、「ち」は地行(ぢぎょう)のち、だということで、中央区長の片山晃一さん(故人)にも納得してもらった。「シーサイドももち」が定着した今、なんで「ももち」なのか?限られた関係者のみが知っている秘話だと思っていたら、近刊の福岡市史ブックレット・シリーズ『シーサイドももち』でちゃんと紹介されていた。
博覧会と埋め立て地
博覧会はアジア太平洋博覧会と名付けられ、開催準備が進むほどにその開催地としての地行・百道地区の知名度は浸透して行った。博覧会のパビリオンとしての出展要請活動と土地処分の営業活動とは、まさに相乗効果をもたらしていたと思う。その1つの象徴が博覧会パビリオンの恒久施設化だった。パビリオン出展のメリットはなくても、出展することで土地が手に入るならと、さまざまな提案が寄せられた。生き残ったのはテーマ館として利用された福岡市博物館、博覧会のシンボル施設としての福岡タワー、海上パビリオンとしてのマリゾン、西部ガスのガスミュージアム(平成15年閉館、跡地は介護付有料老人ホームに)だった。また博覧会期間中に開催したシーサイドももち住宅環境展では、九州の建築家の戸建ゾーン、世界の建築家街並みゾーンが展示され、博覧会後に販売されていった。
土地利用計画の大転換
担当する西部開発課の中心にM係長とTさんがいた。M係長は博多福祉時代の先輩で、法制部門が長く、いわゆる能吏だったが、人柄も穏やかで優しかった。一方Tさんは、糸の切れた凧のような存在で、出て行ったら最後いつ帰ってくるのか、どこに行ったのか分からなかった。が、このコンビは絶妙だった。当時住宅の供給がこの埋め立て事業の最大の使命とされていたものの、団地型の住宅に対する需要は低迷しており、住宅需要が量から質へと転換し、優良な住宅に対する需要が増大していたので、戸建住宅の導入は不可欠だった。しかし、2人が足を棒にして引き合いを探して回ったが触手を伸ばす住宅メーカーは皆無だったらしい。そのなかで唯一関心を示してきたのが積水ハウスだった。神戸の埋め立て地での実績もあったが、何より福岡市随一の文教地区としての百道地区の可能性に着目し、戸建住宅を中心にした土地利用に強い意欲を示していた。芦屋の六麓荘や奈良の学園前などと肩を並べる我が国屈指の住宅地をつくることができると。
そこで問題になるのは公有水面埋立法(以下「埋立法」)の存在だった。埋め立て地が転売され、当初の埋め立て免許の目的と異なる土地の利用が全国各地に噴出したため、「埋立法」は改正され、埋立事業者は、最終の需要者にしか土地を売ることができなくなっていた。つまり埋立事業者である
福岡市は、ハウスメーカーなどに市民向けの戸建用地を直接には売れないのである。そのため、住宅地については公的な機関の住宅・都市整備公団や市の住宅供給公社に建設販売してもらうことが大前提だった。しかし団地型の住宅の需要が低迷するなか、住宅・都市整備公団も住宅供給公社も多くの在庫を抱え、販売リスクを抱える財政的な余力はなく、大規模な事業展開には極めて消極的だった。ゆえに戸建住宅の導入と大胆な民間事業者の参入によって活路を開く外なかった。戸建住宅のノウハウをもち、強い事業意欲を持つ民間企業との共同開発を住宅・都市整備公団が引き受けるか、市の住宅供給公社が引き受けるかだったが、市住宅供給公社八尋栄理事長が事業参画の意義を理解し、決断された(八尋理事長は中央大学の先輩で、昭和56年に僕が結婚したときの媒酌人でもあった。市役所内での毀誉褒貶は激しかったが、とてもシャープな考え方をされる方だったと思う)。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411関連キーワード
関連記事
2025年1月3日 06:002025年1月2日 06:002024年12月20日 09:452025年1月14日 16:202025年1月10日 10:402025年1月7日 12:302024年12月13日 18:30
最近の人気記事
まちかど風景
- 優良企業を集めた求人サイト
-
Premium Search 求人を探す