【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(5)
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
〈港湾議会〉
住宅用地26.8㏊を市住宅供給公社に24.4㏊、住宅・都市整備公団に2.4㏊売却することを決め、昭和62年(1987)6月議会に埋め立て地の処分議案を提出した。この議会では、東部の埋め立て(現・香椎パークポート)認可の議案も出ており、各会派からの質問も集中し、さながら「港湾議会」の様相を呈していた。常任委員会審査に備え、想定質問を100問超用意した。直属のM部長から、「そんなにつくっていくつ当たるのか」とからかわれた。当時の課長は楽観的な人で?毎日僕などが何時まで残っていても、よほどのことがない限り定時退庁だった。議会前の局の勉強会は当時の末藤局長の指摘が的確で厳しく、緊張感満載だった。うちの課長はたびたび炎上していたので、ほぼワンマンショーが予想されるこの常任委員会審査は心配だった。案の定というべきか、最初の質問は想定にないものだった。不意を突かれていったんレールを外れるとなかなか戻れない。委員会は大もめに揉めて、確か午後から助役の出席が求められたと記憶する。記録によると、終了時間は午後3時18分だった。
土地利用計画の変遷は以下の通りである。戸建住宅を導入し、住宅用地も処分が終わって、ほぼ需要先も固まってきていた。折から福岡市の基本構想/基本計画の策定時期でもあり、シーサイドももちの土地利用を固めていく必要があった。昭和63年(1988)4月の第6次福岡市基本計画のとりまとめを受け、6月に「シーサイドももち土地利用検討委員会」(座長/光吉健次九州大学名誉教授)を設置した。12月迄の間に5回の審議を行い、ゾーニングや用途を固めていった。計画論というより、寄せられていた有望な需要先をどのように位置づけて、どう貼り付け、シーサイドももちの都市機能を高めていくかという作業だった。審議が取りまとめに入ろうとしたころ、ダイエーによる南海の買収、それとともに、ドーム球場を含めたツインドームシティ計画が福岡市に提出された。同委員会では検討の上、地行地区に「スポーツ・レクレーション用地」を位置づけ、対応することとし、翌4月に報告書が提出され、シーサイドももちの土地利用計画の最終的なカタチが固まった。
昭和61年(1986)
2月 海浜都市土地分譲計画委員会にて、処分計画と収支計画決定
中高層住宅6,850戸、居住人口26,000人昭和62年(1987)
3月 用途変更〜戸建住宅の導入
住宅5,400戸、人口20,000人
7月 住宅用地処分26.8㏊(市住宅供給公社、住宅/都市整備公団)
10月 福岡市基本構想策定昭和63年(1988)
4月 第6次福岡市基本計画策定
6月 「シーサイドももち土地利用検討委員会」設置平成元年(1989)
4月 「シーサイドももち土地利用計画検討報告書」提出
9月 土地利用計画策定 住宅3,000戸、居住人口10,000人幻のツインドーム計画
「港湾議会」を何とか乗りきり、殺到していた需要先のやりくりのメドもだいたいついてきていた昭和63年(1988)の夏前頃から、ダイエーによる南海球団買収で、シーサイドももちにドーム球場をつくることになるかもしれないとの極秘情報が入ってきていた。市役所随一の政策通との評価のあった総務局企画部の鹿野至主査が友池助役の特命で動いていて(このあたりの状況は元東京読売巨人軍代表の山室寛之氏による『1988年のパ・リーグ』(新潮社/2019)に生々しく書かれている)、地主である港湾局も限られたメンバーで連携していた。鹿野さんは福高の先輩で旧知だったが、なんせ秘匿すべきことも多かっただろうから、港湾局の事務方としての僕は不満も募り、当時飲み屋でつかみ合いのケンカをしていたとの証言もある?その鹿野さんが、後に僕の人生を大きく変える(謂わばジェットコースターに乗せる)切っ掛けをつくることになるのだから人生は不思議である。
当時10月1日に開催予定のオーナー会議までに事が露見すると、この話は潰れるとのことだった。ちょうどその折、僕は9月3日~18日の間、海外派遣研修の一環で、当時沿岸域開発の第一人者で元運輸省・大阪産業大学教授の今野修平氏を団長とする「ヨーロッパ沿岸域リゾート開発地区実態調査団」に参加していた。この視察団はイタリアのコモ湖をスタートして、サンレモ、モナコ、ニース、バルセロナ、ロッテルダム、パリなどをめぐる、僕にとって初めてのヨーロッパであり、まさにヨーロッパ沿岸域の代表的なリゾート地を総なめにするような、今考えても夢のような行程の視察団だった。その旅の後半戦、9月12日にバルセロナからジュネーブを経由してアムステルダム空港に降り立つと、空港売店の新聞のなかに日本語のたしか報知新聞だったと思うが、一面に「南海身売り」の大見出しが踊っていた。ああ、これでダメになった。ドーム球場の立地など大事を抱え込まずに済んだと安堵して数日後に帰国したが、どっこい話は生きていた。
昭和63年(1988)10月1日、オーナー会議で南海からダイエーへの球団譲渡が承認された。ライオンズが消えて10年、新球団の誘致は市民の強い願いであり、「親子で見たい新球団」のステッカーは今も記憶に残っている。ダイエーが南海を買収しそのフランチャイズを福岡に、としたことは、こうした地元の誘致運動の熱気が大きな要因だったことは間違いない(前出『1988年のパ・リーグ』でも明らか)。平和台球場が鴻臚館遺跡との関係で利用できず、新たに球場敷地が必要なこと、そしてその適地がシーサイドももちであることは、ある種必然の流れだった。そして、「市民球団誘致市民会議」の委員長として、市民運動の先頭に立った山崎広太郎市議会議長の秘書として間もなく仕えることになるとは、これもまた不思議な縁である。
昭和63年(1988)11月にダイエーによる南海球団の買収。そして、間をおかずだった気がするが、20㏊の土地取得の要請が表明された。ドーム球場の敷地としては10㏊もあれば十分なのに、20㏊とはと訝っていると、ツインドームシティ構想なるものが出てきた。日本初の開閉式ドームのほかにファンタジードームとその間のリゾートホテルからなるもので、ポンチ絵のような紙一枚の図面とザックリとした事業計画からなる提案書だった。ドーム球場はともかくファンタジードームの絵はカクテル光線が交差する巨大なディスコみたいな感じだったかな?とにかく土地をたくさん欲しくて、ツインドームにしてきたんじゃないかと思うほどで、とても貴重な埋め立て地が分譲できるような代物のようには思えなかった。交渉の相手方もかなり横柄で、置いたものを取るようなつもりじゃ困るみたいなことを言っているうちに、僕は交渉の担当から外れていった。
最終的にこの土地は、1年後の平成元年(1989)9月26日福岡市議会で売却が議決された。総額301億円(うち6.4㏊のドーム用地については20%の減額が行われた。減額の理由は(1)市民球団として誘致した福岡ダイエーホークスのフランチャイズの球場であること、(2)施設自体の収益性が低いこと、(3)公共利用についてのダイエー側からの約束があったこと、だったと記憶する)。
土地売却からおよそ4年後の平成5年(1993)4月17日、福岡ドーム球場(ヤフオク!ドーム→現PayPayドーム)での初の公式戦、福岡ダイエーホークスVS近鉄バファローズ戦が開催された(野茂英雄が7回までノーヒットノーランの快投、エース村田勝喜の投入むなしく、0対1の完封負けだった。両チームとも身売りや吸収合併で、消滅しているのも時の流れを感じてしまう)。
そして、その5年後、平成10年(1998)「ファンタジードーム構想」は断念され、ホークスタウン→平成30年(2018)11月、MARK IS 福岡ももちが誕生している。
結局このシーサイドももちの埋め立て事業(港湾整備事業特別事業会計)で市は800億円超の黒字を生み出し、基金に積むことで、その後のアイランドシティ事業も辛うじて一般会計からの持ち出しをせずに済んだ。当時の強烈なバブルの追い風が功を奏したのだが、福岡市の「運に恵まれた」都市伝説の1つだと言っていいだろう。
ファミリーヒストリー(1)
シーサイドももちには、アジア太平洋博覧会の当時から家族連れで何度も行っている。福岡タワー、マリゾン、博物館、ドーム球場、シーホークホテルなど、そのたびに、ここはパパがつくった街だと吠えた。土地利用計画をつくるのも土地を売るのも全部自分がやったかのように。親爺のそんな自慢話を子どもたちは真に受けないが、なんせ30代前半の働き盛りに、目いっぱいのエネルギーを注ぎ込んだ仕事だし、今や元気な福岡市の1つの象徴として存在していること、形に残る仕事ができたこと、自治体職員冥利に尽きるものと思う。
ここでうれしいことが起こった。通信技術屋の長男が昨年、福岡に事業所のある会社に転職し、祖父母のみならず家族は大いに安心し喜んだのだが、その会社の所在地がシーサイドももちのRKB放送会館内にあることが判明。住まいは会社の近くがいいというので、それじゃとシーサイドももち内のUR賃貸を勧めた。福岡市がたっぷりと金を注ぎ込んだ街だ、博物館も図書館も何でもあるから活用しない手はないと推しに推した。幸い一室空きがあり、即予約を入れて、今はシーサイドももちの住人になっている。会社まで徒歩5分。娘たちもPay PayドームやMARK IS でのイベントの折の活動拠点として使っている。会社も住まいも僕が立地の素案をつくった場所だ。今やシーサイドももちへのアッシーが楽しくてしかたがない。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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