【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(6)
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
第2フェーズ 1989.4~1994.4
運命の人事異動~市議会議長秘書へ港湾局3年目、いよいよ3月にはアジア太平洋博覧会が開幕するという平成元年(1989)の初め頃だったろうか?突然、「市議会議長秘書の話がきている、係長級への昇任だし、受けるように」との話が下りてきた。当時の僕でも市議会議長の名前くらいは知っていたと思うが、もちろん一面識もない。議長に秘書がいることも知らなかった。僕は都市計画局、都市開発局、都市整備局、そして港湾局で区画整理や埋め立て事業を経験し、当時、市職員として歩いて行く道が「都市計画分野」だとはっきり見えてきていた。なのにまったく畑違いの想像だにできない議会事務局/議長秘書。戸惑うしかないが、議長にシーサイドももちの土地利用計画を説明してくるようにとの命令。体のよい首実検だったのだろう、話は決まってしまった(初めて市議会議長室に入ったのだが、議長のソファの側にコーヒーポットが置いてあって、議長がコーヒーカップに珈琲をついでくれたのには驚いた。かつて駐日米大使のマンスフィールド氏を訪ねた折、同様の対応をされ、感心してまねをしたそうだが、長続きしなかったと何処かで述懐していた。しかし物々しい雰囲気かと思っていたので、新鮮な印象だった)。
事の顛末はこういうことだった。当時の市議会議長だった山崎広太郎氏が(山崎広太郎氏はその時々で議長であり、代議士であり市長であったが、以後の呼称は「広太郎さん」で統一することにする)全国市議会議長会長に就任することになり、全国を飛び回り福岡市を空けることが多くなるが、やらないといけないことがたくさんある。自分がいない時に仕事が止まらないように、都市計画のわかる人間が欲しいとのリクエストが先の鹿野さんにあり、福高の後輩でありその頃関わりの多かった僕を推薦したのだ。この人事が結局僕をジェットコースターに乗せた(いや、乗ったのは自分なんだけど)。
残念ながら鹿野さんは先年亡くなってしまったが、市役所を退職後に妻の職場を訪ねた折に、「あんたの旦那の人生、俺が変えたもんね」とぽつり呟いていたらしい。広太郎さんは、43歳での議長就任時、政令市議長の歴代最年少と話題だった。当時も47歳と若かったが、議長職は異例の5年目を迎えており、九州各地の市議長の皆さん方の熱い期待を一身に浴びて推挙され、全国市議会議長会長も歴代最年少で就任することになっていた。
秘書着任早々2つのことを指示された。1つはダイエーホークスを市民球団とすること、2つ目はアジア太平洋こども会議の運営を財団化すること。いずれも、広太郎さんが福岡青年会議所のメンバーと一心同体で取り組んできたテーマである。市民球団誘致運動は、失敗したら政治生命に関わるとの助言を振り切って先頭に立ってきた。アジア太平洋こども会議もアジアから1,000人ものこども大使をホームステイで受け入れるという一見無謀な取り組みの発起人となり、反対していた外務省との交渉にも取り組むなど、当時の福岡青年会議所のメンバーとの信頼関係は絶大なものがあった。球団誘致運動では歯医者さんの小田展生さん、こども会議では財津重美さんや小林専司さん(現・県中小企業経営者協会長)、加地邦雄さん(元県議会議長)など、歴代の理事長や幹部の皆さんとすっかり仲良くしていただいた。
議長秘書のお仕事
議長室の仕事は忙しかった。最初の年は博覧会もありで、やたらイベントへの招待が多く、いつも背広のポケットに複数の挨拶文が入っていた。役所の行事であれば、その委員会を所管する議事課の委員会係長が書いてくれたが、その他の行事であれば、挨拶文からつくらなければならなかった。随行から解放され、議長室に戻ってからの挨拶文づくりはしんどかった。細々とした注文はなかったし、議長5年目だからいろいろな場での経験知もあるので、挨拶文を読まない方が、どんな場も温まるのだが、「こんな挨拶文つくって、これをどんな場面で読むかわかっているのか?」などと言われて冷や汗もたっぷりかいた。そして議長室に在室中は来客がムッチャ多かったので、いつも待合室に人が溢れていた。一息入れられるように、当初は30分間隔で受けていたが、とてもさばけないので20分間隔にしろと言われたりした。来客が増えれば増えるほど僕のTODOリストも増えていくので、しんどかった。さまざまな陳情、できないというのは簡単だけれど、相手も困って議長のところまできているのだから、広太郎さんからも「NOじゃなくて、YESからだ!すぐにできないと言うのじゃなくて、どうやったらできるか考えろ」とよく言われた。外の会合に出て行っても新鮮な経験ばかりだった。いわゆる七社会のトップの皆さん方とご一緒する機会も多かったが、広太郎さんが名実ともに議会のリーダーであり、次の時代の福岡市のリーダーとも目されていたこともあるのだろう、大事にされていたし、僕は僕で、随行されている秘書さん達(のちの経営幹部に登っていく人たちが多かった)との交流はとても得難い経験だった。
僕はそのとき、自治体職員として、大切なもう1つの目を開かされた思いがする。
執行機関の一員として14年、当時それなりの経験を積み、議員何するものぞとの思い上がりにも似た過信も生まれていた。しかし、議長のみならず、市民から直接選ばれる議員の活動に身近に接し、議員を通して見える市民の姿や自分がこれまで見てきた世の中と異なる風景がみえてきた。所詮自分は机の上で物を考え、役所の窓から市民や社会を見てきたのではないか?1回の試験で安定した身分を得て、市民を施策の対象としてのみ見てきたのではないか?主は市民であり、僕などはその奉仕者であること。専門知識をもつテクノクラートとして自らを磨くことは大切だが、市民感覚、市民目線に学び、謂わばパブリックサーバントとしての役割を忘れてはならないと気が付いた。後年、僕が議会改革に参加し、当時北海道栗山町議会の中尾修事務局長の「議会事務局への異動は、公務員人生にとって最大のチャンスである」との箴言に強く触発され、いろいろなところでその箴言を拡散していったのは、この気づきによるものである。
全国市議会議長会~地方分権との出会い
このころの政治/行政の状況は臨調・行革審による国鉄改革など行政改革が大きな流れであり、「官から民へ」「国から地方へ」がその大きな柱になりつつあった。折しもリクルート事件などの影響もありで「政治改革」が取り沙汰されてきており、「行政改革」と「政治改革」とあいまって、「地方分権改革」が浮上しつつあった。総理直属の諮問機関である地方制度調査会では地方分権を進めるべきとする累次の答申が出されていたが、改革は一向に実現してこなかった。全国市議会議長会は地方六団体の1つであり、会長は地方制度調査会のメンバーの一員であった。同じ島根県出身ということでよしみを通じていた連邦制を主軸に地方分権を唱える元島根県知事恒松制治さんからは、地方制度調査会には必ず出席するようにと言い渡されていた。広太郎さんは、草の根民主主義を信奉しており、当然のことながら根っからの地方分権論者であった。
折しも前年地方制度調査会が「地方公共団体への国の権限移譲等についての答申」を出し、さらに平成元年(1989)12月、行革審から画期的な「国と地方の関係等に関する答申」が出されたことにより、局面が大きく動いていくことになった。広太郎さんが会長に就任時の全国市議会議長会総会においても「長年の懸案である都市への権限委譲とそれに見合う地方税財源を確保し地方分権をより実効のあるものとしていくことが必要」と訴え、時の総理大臣竹下登氏の挨拶では、「ふるさと創生や地域の活性化の問題を内政上最も重要な課題の1つとして政府全体として推進を図りたい」と述べられていた。
その一方で、広太郎さんは就任挨拶でこうも言っていた。「地方政治に対し、直接的かつ最も大きな責任を負うものとして今日の我が国政治が抱える諸問題に対し、就中政治改革に対し強い関心を持ち続けなければならない」。その後の地方の自立を訴えた福岡県知事選や政治改革/地方分権を訴えた衆議院選挙への出馬を思うと興味深い。
この年は多くの市が市制施行百周年を迎えており、式典に招かれ多くの自治体を訪ね意見を交換する機会も多かった。その一方で、国(=霞ヶ関&永田町)とのやり取りの機会も増えていった。あるとき、広太郎さんがこう呟いた。「吉村、国は地方分権なんてまったく考えていないぞ。地方が力を合わせて奪い取るしかない」と。あのときが「地方分権」が一挙に自分のライフワークに浮上した瞬間だった気がする。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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