2025年01月21日( 火 )

【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(8)

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 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

一番面白かった選挙戦

 表立っては動けなくなったが、いろいろやった。もう時効だろう。秘密の一室があてがわれ、公約=「元気で豊かな福岡県づくり〜自立へのシナリオ」づくりにはまったり、夜陰に乗じて、事前ポスター貼りにも走り回った。年も押し詰まったある日、運転を誤って側溝に車輪を落とし込み、同伴者があろうことかジャッキをオイルタンクにかけてしまって、オイルタンクが破れ、年末年始の脚を失ったりもした。

 選挙運動(=正式には?「県民サークル21」の政治活動)は、青年会議所のメンバーが中心になって、若いエネルギーがほとばしるように思いつくことは何でもやった。

 あるとき、大分県境にポスターを貼りに行ったメンバーが、ポスターをたくさん余らせて帰ってきた。さぼっていたのかと責められていたが、「電信柱がなかった」と。

 とにかく福岡県は広かった。勝手連のような動きがあちこちに立ちあがり、もちろん選挙に初めて関わったのだが、選挙運動がこんなに面白いものかと思った。後にも先にもこんなに面白い選挙運動の体験はなかった。

竹下さんと小沢さん

 水面下の活動にもいろいろ首を突っ込んだ。

 広太郎さんを擁立すべきだと、県下市議会議員有志/福岡青年同志会名で当時の自民党小沢一郎幹事長に直訴しようということになった。しかし小沢幹事長はそのような面会は一切受けないとのこと。

 そういうなか、広太郎さんの自民党本部時代の友人の計らいで、直訴状だけは受け取ってもらえるようになった。じゃ誰が行くか、一番手が空いている僕が行くことになった。

 メモによれば、11月8日、国会議事堂内の自民党幹事長室、もちろん国会議事堂すら初めてで、赤絨毯をどう歩いたのかまったく覚えていないが、とにかく幹事長室に辿り着いた。自民党幹事長室は議員やスタッフ、マスコミ関係者らしき人たちでごった返していた。テレビドラマでも見るような感じだったが、特別何かがあっているわけではないと聞いて、飛ぶ鳥を落とす勢いの小沢幹事長の凄さを思い知らされた。幹事長室のどなたに渡したのか、もう記憶にないが、福岡市議会事務局総務課主査(議長秘書)の名刺を出した。我ながら、冷や汗ものだった。

 翌1月下旬、元総理竹下登氏のところにも行った。竹下氏は同じ島根県出身であり、秘書を務めていた青木幹雄氏(後に参議院のドンとも呼ばれる存在となられた)が広太郎さんの親戚筋にあたることもありで、後見人のような存在であった。そこで、自民党の県知事候補を広太郎さんに一本化してもらおうとの福岡市議会の有志議員の陳情に付いていき、永田町の「TBRビル」の事務所を訪ねた。現下の情勢を伝え、広太郎さんに一本化すれば勝てるのでご尽力いただきたいと。話はじっくり聞いていただき、穏やかな話しぶりで、参加した議員も好感触を得て、事態が動くのではないかという期待が高まった。が、事態はまったく動かなかった。

 後付けだけど、経世会の力関係は、創業者である竹下登氏から辣腕幹事長小沢一郎氏に逆転しており、経世会内部は小沢VS小渕の対立が深まっていた時期だったようである(ちなみにこの年の都知事選挙で小沢氏は現職の鈴木俊一氏に対抗して、NHKのキャスターだった磯村尚徳氏を強引に担ぎ出したものの大敗し、幹事長職を辞任するに至り、経世会会長代行となったが、その後の政界大波乱につながって行く)。広太郎さんはその年の正月元旦にも竹下氏に呼ばれ、「後始末は全部やるから、重富氏への一本化に応じるように」と説得されていたが、応じていなかった。

 いよいよ1月29日に決起大会が開催され、重富陣営を遙かにしのぐ、8,000人近くを福岡国際センターに集め、広太郎さんもいよいよ退路を断つ一方、党本部や県連、地元経済界を巻き込んだ重富氏へのいわゆる保守一本化工作も断念に追い込まれていった。この前後に広太郎さんは小沢幹事長とも会っていたそうである。後で本人から聞いたところによると、一本化に応じるように言われたが、「あなたなら降りるか?」と聞いたら、「降りないだろうな」と言っていたと。このおよそ2年後、細川連立政権で相まみえ、後には新進党の党首としていただくというのは、政界は一寸先は闇というか、人生はかくも不思議なめぐり合わせなのだ。

 後年、新進党福岡県連大会の来賓として、小沢一郎党首を招いた。僕は空港に迎えに行ったのだが、厚かましく後部座席に乗り込み、福岡県知事選の折の幹事長への直訴状の話をした。小沢氏はびっくりした顔をしていたが、「今は一緒にやれるようになったからいいじゃないか」と言った。そんなやり取りも遠い昔の話であるが、小沢氏がまだ現役であるって、凄いことだなぁとも思う。

広太郎さんの思い

 県知事選挙のことがいつ頃から広太郎さんの頭のなかに浮かんでいたのか定かではない。平成2年(1990)は当初議会が終わってすぐに、4月3日から福岡市議会のメンバーと一緒にヨーロッパに視察旅行へ行っている。11日に1人離脱しているが、その間県知事選挙のことは話題にあがっていない(僕も同行/年休/自費参加)。おそらくその直後の春の議長会からのことだと思われる。

 この年は、翌年に県知事選挙を控え、日頃から革新県政について批判的な保守系の議長たちは、いまだに候補者が決まらず、保革相乗り、奥田知事3選容認論もささやかれるなど、批判や不満のボルテージが高まっていた。市議会議長たちは謂わば歴戦の強者であり、広太郎さんも選挙については、一家言も二家言ももっていた。「自公民などの国政の枠組みを優先して、国主導の候補を上から下におろすような選挙では県民の共感は得られず、現職知事に対抗できない。そうではなく、下から盛り上げるような市町村議員が中心になった選挙をやるべきである」というのが持論だった。「国と県を縦糸に市町村議員の横糸を通さなければ足腰の強い選挙はできない」と。そしてそれには地方分権が取り沙汰されるなか、「地方の自立」という大義もついてきていた。

 広太郎さんはまずは候補者選定に一石を投じ、自分を「サンプル」にして考えて欲しいというのが正直なところだったかと思われる。しかしながら、そのような広太郎さんや議長たちの主張は自民党福岡県連には一顧だにされず、ついには党本部/小沢幹事長主導による総務庁審議官/重富吉之助氏の候補擁立が決まり、「地方の自立」という拳を振り上げた以上、自分1人の思惑ではどうにもならなくなっていたのではないかとも思う。

 広太郎さんとしての誤算もあったと思う。当時福岡県選出の国会議員、ことに選挙区が同じ福岡1区の山崎拓氏と太田誠一氏の間に大きな確執があると言われ、地方議員はそれぞれ拓進会と太誠会の系列に分かれてしのぎを削っていた(かつての中選挙区制での同じ党の議員同士の確執は、その後の政治改革の主要な眼目にもなっていった)。その折の県連会長は太田誠一氏であり、拓進会の広太郎さん(本人に系列意識はなかった。修猷館高校の先輩後輩であるが、ともに政治家を志して、一方は県議から国会議員に、一方は市議会議員になっただけの自立した関係というプライドもあった)にとっては、太田誠一氏を説得すれば、山崎拓氏は反対するはずがないとの思いから(衆目もそうだったが)、太田県連会長の説得は太誠会の議員が前面に出て行っていた。

 その太田氏は、「山崎氏が地方のことは地方でと言っているが私も同感だ。山崎氏は、私の長年の友人で、すばらしい人物。知事としても十分やっていける」とすら発言することもあった(H3.1.9 朝日新聞)。しかし、肝心の山崎拓氏が、自公の枠組みを頑として譲らなかったようだ。確たる見通しのないままに広太郎さんの後押しをして戦犯の誹りも困るというのが本音だったかもしれないが、ここは中央政界のパワーゲームが大きく影響していたのではないかと今にして思う。

 当時の中央政界は湾岸戦争を契機に国連平和維持活動などの国際貢献が大きな争点となっており、後のPKO法の成立など、自民党にとって公明党との関係は最重要視されていた。その一方で、平成3年(1991)1月には反経世会を旗印にしたYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)も結成されており(『YKK秘録』2016、講談社 29p)、小沢氏とはまさに政敵の関係であり、県知事選挙に向けた自民党本部と地元国会議員との綱引きもありで、山崎拓氏としては身動きが取れなかったのではないだろうか?それから2年後、政治改革を大きな争点とし、自民党の一党支配が終焉を迎え細川政権が誕生する中選挙区制最後の衆議院選挙で、広太郎さんは山崎拓氏を抑え、全国最多得票で当選することになる。これも歴史の皮肉だろうか。

 そして福岡県知事選挙の結果は大惨敗だった。363,440票、一部には大善戦との評価もあったが、重富吉之助氏に負けたことは屈辱だったし、重富氏537,644票と足しても奥田氏969,038票にはおよばなかった。しかもこの知事選の投票率は54.87%で、前回73.20%、前々回76.45%を大きく下回って、以後の福岡県知事選挙で投票率が55%を超えることがなくなってしまった。

 あの日は終日土砂降りの雨が続いた。「広太郎さんは雨男」で有名だったが、投票日にあれほどの雨が降ったのは記憶にない。春もまだ浅くほとんど氷雨だった。開票の時間に合わせ土砂降りの雨のなかをワイパーを早回ししながら、僕の運転で小倉の選挙事務所に向かったが、開票率0%で奥田候補の当確が出て、早々に福岡の本部事務所に戻った。何とも気の重い運転だったが、本部の事務所にはたくさんの支持者が集まっていて、大歓声で迎えられた。マスコミの記者さんたちが、「まるで勝った方の事務所みたいですね」と言っていたことを思い出す。投票率の低さを当時のマスコミは、(1)際立った争点がなかった、(2)保守分裂で選挙がしらけていた、(3)天気が悪かったことを挙げていた。

 僕などはあの雨さえなければ、重富候補には勝っていたはずと強がりを言っていたが、所詮2位争いで、正直なところ福岡県は広かったし、福岡市議会議員として20年、議長として6年、さらには全国市議会議長会の会長を務めていたとはいえ、広太郎さんの知名度は限定的だった。僕らの周りでは大いに盛り上がっていたが、自己陶酔、自己満足の世界だったかもしれない。投票率という冷厳な事実がそれを物語っている。

 後年、広太郎さんはその著書『紙一重の民主主義』(2012、PHPパブリッシング37p)でこう言っている「選挙民は、なべてやさしかったし、正しく評価してくれたと思う。実力の届かない、自分でも少し背伸びしたと感じるような選挙は決まって落としてくれたし、ここというときには必ず支えてくれた」。まさに至言であり、僕の口からとやかくいう必要もないだろう。

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

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