2025年01月22日( 水 )

【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(9)

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 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。

戦いすんで日が暮れて

 嵐のような日々が過ぎて、僕は調査課調査第一係長として、引き続き議会事務局に在籍することになった。執行部からは僕の人事異動について打診があったが、局長が出さないと返事したとの話を聞いた。それから3年間平和な凪の日々が続くのだが、あの時異動していたら僕はジェットコースターに乗らなかったかもしれないとも思う。係には4人のスタッフがいて、みんな真面目で優秀だったから、係長としてする仕事はほとんどなかった。

 大きな仕事としては「議会だより」の発刊があったが、事務的な作業は前任の係長さんが見事に整理をしてくれていた。政令市ではほとんどの議会が議会広報紙を発行しているにも関わらず、福岡市議会ではその発行に消極的だったので、問題は議会内の合意形成だった。ここは議長秘書の経験が役に立った。会派間を飛び回る仕事は性に合っていたし面白かった。「議会だより」は無事に翌年の平成4年(1992)5月1日創刊することができた。

福岡市職員を辞職
日本新党との出会い

 日本新党というだけで、今でも胸が疼くような思いがする。その後にも新党ブームはあまた起こったし、熱に浮かされていたといえばそれまでだが、あれほどに魂を揺さぶられたことはない。どうしてなんだろう?

 僕は小学校の卒業文集の将来なりたい職業で政治記者と書いていたほどで、政治には関心があったし、父が社会新報を購読していたからか、一貫して自民党も嫌いだった。そして、細川護煕氏には熊本県知事時代から注目していたし、退任後の行革審/「豊かなくらし部会」会長としての地方分権への言及は刮目すべきものがあると思っていた。さらには広太郎さんの秘書としての活動のなかで、地方分権は自らのライフワークとなりつつあったし、県知事選挙に深く関わるようになって見えた政治の現実、さらには当時の国政の舞台では、リクルート事件や国際貢献論議をめぐる国会の混乱など、僕なりにも政治改革が喫緊の課題だと認識していたと思う。

 そのようななかで日本新党は登場してきた。平成4年(1992)5月9日、書店に並ぶようにして、買い求めた文藝春秋6月号に掲載された結党宣言をむさぼり読んだ。自由社会連合という名前にはちょっと拍子抜けだったが、結党宣言の文章は体中に電気が走るというか、血が逆流する思いだった。

 「荒海に漕ぎ出してゆく小舟の舳先に立ち上がり、難破することをも恐れずに、今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私はあえて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う。歴史を振り返ってみれば、理想のための船出というものは、いつもそうだったのだ」。

 今読んだら青臭い書生のような文章だし、後になって、結党宣言は当時学習院大学教授の香山健一氏の手によるものと知ることにもなったが、痺れた。細川家当主、いわばお殿さまの立ち居振る舞い、その洗練されたスマートさはこれまでの政治家とはまったく異なるものであり、いやが上にも期待のボルテージが上がっていった。

 月末には「日本新党」という名前も決まり、白と緑の政党のイメージカラーも清新だった(当時、僕の馬券は枠連は白と緑の(1)‐(6)は必ず買っていたという偶然?)。夏の参議院選、都知事選で大躍進を遂げていったが、取りまとめられた基本政策の6つの基本目標の3つ目に「地方分権」が掲げられ、基本法を制定し、抜本的財源転換を図ることがうたわれていた。いよいよ国政の舞台に「地方分権」が登場してきたことを実感していた。

 一方で、国政は政治改革/選挙制度改革一色に染まりつつあった。平成5年(1993)1月の第126回通常国会で、宮澤首相は「政治改革がすべての変革の出発点」と施政方針演説で表明していた。衆参の代表質問でも政治改革/選挙制度改革に言及しない議員はいなかった。なかでも僕の記憶に残るのは自民党の北川正恭氏(後に離党し、新党みらいの結成、新進党への合流、三重県知事へ転じての三重県政改革、マニフェスト運動を提唱の他、広太郎さんとも不思議な縁があった)の質疑内容だった。テレビの前で感心して聞き入っていた。さすがに自民党には人がいるなと。その後のご縁は当時想像だにできるはずもなかった。

 そうこうしているうちに、3月に入って副総裁金丸信氏の巨額脱税事件が発生し、国民の政治不信は高まる一方、自民党内も経世会が分裂し(竹下/小渕VS金丸/小沢)、一挙に宮澤内閣不信任案の成立に向けて政局が流れていった。

 一方福岡では、衆議院の定数是正(9増10 減)が平成4年(1992)12月に行われており、福岡1区は定数が5から6への増が決まっていた。広太郎さんは、自民党の3議席目が有力視されており、福岡県知事選挙への再度の挑戦のため、北九州市にも事務所を置いて活動していたが、必ずしも展望は開けていなかった。黙っていれば、山崎拓氏、太田誠一氏に続く3議席目が広太郎さんのところに降りてくるとも言われていた。僕は、日本新党の催しに参加していて、いよいよ日本新党への期待が高まり「広太郎さんが日本新党から出てくれたらいいな」と秘かに思っていた。前年夏の参院選比例で日本新党は福岡1区で10万票ほどを獲得しており、候補擁立に動くのは当然で、広太郎さんも細川氏から強く誘いを受けていることは仄聞していた。

 しかし、1月31日(火)の西日本新聞で、前日の後援会の新春のつどいで、「今は国政に転身する考えはない」と表明したとの報でガッカリしていた。2年前の県知事選の折に盾となって支えてくれた福岡市議会の同僚議員の猛反対があったからだと報じられていた。直後に自分たちの選挙を控えながら、あの厳しい県知事選挙を一緒に闘ってくれた同僚議員の心情を思えば、なかなか厳しい立場なのだろうと思いつつ、「国政に対し重大な関心を持ち続けたい」「政治状況が変わればどうなるか分からない」との発言もあったとのことで、僕としては一縷の望みをかけていたかもしれない。

 そして3月26日、満を持して?広太郎さんは、「国民の政治不信が頂点に達した今、 戦後50年続いた政治の仕組みを根本的に改める動きの一員として働きたいとの決意で踏み切った」(H5.3.27 朝日新聞)として、日本新党から次期衆院選に立候補することを表明した。そして7月4日、結果的に中選挙区での最後となる第40回衆議院議員選挙が公示された。7月18日の投票日、広太郎さんは231,720票という驚異的な全国最高得票で当選した。全国第2位だった土井たか子氏に1万票以上の差をつけていた(土井たか子氏は細川内閣の発足と同時に、女性初の第68代衆議院議長に就任している)。細川党首ですら全国第6位で213,125票だった。ちなみに福岡1区の山崎拓氏は第2位の160,585票で、全国第17位、さすがだった。

 日本新党はこの選挙で35議席を獲得し、さきがけ日本新党という院内統一会派を結成。あれよあれよという間に、8月6日、日本新党代表細川護熙氏が首班指名を受け、第79代内閣総理大臣に就任した。同時に38年間にわたる自民党の一党支配が終わったが、ここはじっくり行って欲しかった。新人ばかりの日本新党や細川内閣の行く末、これは大変なことになったと思ったし、小沢氏をフィクサーとする8党派による連立政権の行く末がとても心配だったが、案の定それは現実のものとなってしまった。

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

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