傲慢経営者列伝(14)日枝久、クーデターでフジテレビの独裁権を奪取した男(1)
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火に油を注ぐとは、このことだ。元タレントの中居正広が起こした女性トラブルは、初期消火に失敗し大炎上、スポンサー離れを引き起こしフジテレビの経営危機を招いた。その過程で浮かび上がったのは特異な企業体質。創業家でもオーナー家でもない一介のサラリーマン経営者が長期にわたってフジテレビを支配してきたことだ。(文中の敬称略)
他のテレビ局とは異なるフジテレビ
日本テレビは読売新聞、TBSは毎日新聞、テレビ朝日は朝日新聞、テレビ東京は日本経済新聞の出資を受けており、新聞社の系列だが、フジテレビは他のテレビ局とは異なり、産経新聞の出資を受けておらず、逆に、産経新聞に出資している。
「フジサンケイグループ」と称し、放送、新聞、出版、音楽、通販、商業ビル・都市開発、美術館など多角経営を展開する。収益構造からみると、お台場開発など不動産デベロッパーがテレビ局を運営しているのが実態だ。
グループを統括する非上場のフジサンケイグループの代表、上場会社である持株会社フジ・メディア・ホールディングス(HD)と傘下のテレビ局・フジテレビジョンの取締役相談役を務めているのが日枝久(87)。
1988年に50歳で初の生え抜き社長になって以来、40年近くフジに君臨してきた。フジサンケイは「日枝帝国」と呼ばれ、その頂点に立つ日枝はフジの”帝王”、独裁者なのだ。
日枝が独裁権を手に入れるまでには、凄まじいお家騒動が繰り広げられてきた。会社の生い立ちに由来する抗争の歴史を、中川一徳著『メディアの支配者(上・下)』(講談社文庫)と有森隆著『社長解任』(さくら舎)に基づき要約する。(敬称略)
財界がつくった反共・反左翼のメディア
戦後の財界は、財閥が解体され、大企業の経営者が公職追放されたため、世代交代が進んだ。財界主流派を形成したのは、吉田茂首相の東京帝大時代の学友、宮島清次郎(日本工業倶楽部理事長)の門下生である「財界四天王」たち。
「四天王」とは、小林中(日本開発銀行初代総裁)、水野成夫(産経新聞社社長、フジテレビ社長)、永野重雄(富士製鉄社長)、櫻田武(日清紡績社長)。これに今里広記(日本精工社長)、鹿内信隆(ニッポン放送社長)が加わり、財界の主流派を形成した。
財界にとって、共産主義と労働組合対策が任務だった。共産主義革命への危機感は、現代では想像がつかないほど強かった。財界の労務問題を担当した櫻田は日本経営者団体連盟(日経連)を旗揚げ。櫻田が総理事に就任、鹿内信隆を専務理事に起用した。
櫻田=鹿内の労務担当コンビは「闘う日経連」を標榜し、日本共産党に指導されたラジカルな労働組合と激突した(労働争議)。
米ソが対立する冷戦時代に、資本主義を守ることが至上命令となった。左翼の牙城であるマスコミに、保守メディアの必要が迫られた。財界主流派は反共マスコミ担当として、水野成夫を文化放送に、鹿内信隆をニッポン放送に送り込んだ。当時はラジオの時代だ。
マスコミ対策の本命はテレビ局である。財界主流派の後押しを受けて、57年、鹿内信隆のニッポン放送と、水野成夫の文化放送との共同出資で富士テレビジョンを開局した。その後、フジテレビジョンと社名変更を経て、現在のフジ・メディア・ホールディングスに至っている。
フジサンケイのアキレス腱は、小さなニッポン放送が大きなフジテレビを支配するといういびつな構造にあった。資本関係の“ねじれ”が生じたのは、開局まで遡る。
フジテレビと産経新聞社長の水野成夫が失脚
文化放送を任された水野成夫は東京帝国大学法学部卒。東大時代に新人会に入り共産主義運動に身を投じた。27年、非合法の日本共産党代表として共産主義政党の国際組織であるコミンテルン極東局に派遣され、中国で武漢国民政府の樹立に参画する。帰国後、検挙され、獄中で転向を表明した。
出所後は、政治活動を離れ、翻訳業を始める。アナトール・フランスの『神々は渇く』やアンドレ・モーロアの『英国史』を翻訳した異色のインテリだ。
宮島清次郎に、その才能を見いだされた水野は、転向者でありながら、戦後「財界四天王」の実力者へと駆け上がっていった。
経営の根幹は株式支配にあるという認識は、芸術家肌の革命家、水野にはないものだった。ニッポン放送に送り込まれた鹿内信隆との決定的な違いだ。鹿内はポストにこだわらなかったため、富士テレビジョン(フジテレビに社名変更)の初代社長の座を先輩の水野に渡した。翌58年に、水野は財界の意見を反映した保守メディアをつくるという要望を受けて産経新聞社の社長を兼務した。
元共産党中央委員の水野は左翼の手の内を知り尽くしている。配転・解雇などの荒療治で、就任1年で黒字に転換したが「産経残酷物語」といわれた。
この間、水野は64年にフジテレビの社長を弟分の鹿内に譲って、産経新聞のほうに軸足を置いた。水野は晩年、「天才少女占い師」藤田小女姫(こととめ)の占いに凝った。そのお告げで、プロ野球の国鉄スワローズを買収、琵琶湖のほとりにサンケイバレーというレジャーランドを建設するなどして大赤字を出した。
水野を支えてきた櫻田、小林、今里が引退を勧告。68年10月、水野は産経新聞社の社長を辞任した。財界主流派の裁定で、水野の失敗の尻拭いのため、鹿内がフジサンケイグループの経営を任された。
(つづく)
【森村和男】
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