傲慢経営者列伝(14)日枝久、クーデターでフジテレビ独裁権を奪取した男(2)
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火に油を注ぐとは、このことだ。元タレントの中居正広が起こした女性トラブルは、初期消火に失敗し大炎上、スポンサー離れを引き起こしフジテレビの経営危機を招いた。その過程で浮かび上がったのは特異な企業体質。創業家でもオーナー家でもない一介のサラリーマン経営者が長期にわたってフジテレビを支配してきたことだ。(文中の敬称略)
鹿内がニッポン放送を乗っ取る
鹿内信隆は早稲田大学政経学部卒。戦時中に応召、陸軍経理部主計少尉になる。軍用の製紙会社、国策パルプ工業を設立するとき、鹿内は軍側の担当事務官として、日清紡績(日清紡)の営業部長の櫻田武や大日本再生紙社長の水野成夫と交渉して知り合う。これが、財界人脈の原点となった。
ニッポン放送は54年に、日経連総理事の櫻田武や今里広記ら財界主流派が発起人になって設立された日経連直営の保守メディアである。
ニッポン放送の資本金は3億円。当時の花形産業である造船、鉱業、繊維など日経連加盟企業205社が出資。社長は経団連副会長(のち会長)の植村甲午郎、専務は日経連専務理事の鹿内信隆、取締役には櫻田武が就任した。
経営を委ねられたのは鹿内だ。鹿内はニッポン放送を乗っ取るための布石を打った。
株を支配するものが会社を支配する。資本主義の鉄則である。株主対策は鹿内1人で決めた。自分が全権を握るために、大口の株主をつくらず、分散して小口でもたせた。大口の株主が経営に介入するのを防ぐとともに、株を売りやすくするためだ。
増資時に、社員にボーナス代わりに100株、300株といった少数株が配られていた。退職した社員が手放した株は、すべて鹿内の持ち株になった。こうした個人株以上に大きかったのが企業の持ち株である。設立時に205社あった企業株主は、不況のたびに繊維、炭鉱の会社が手放し、ほとんどが鹿内家へ渡った。
発足時に微々たる株しか持っていなかった鹿内は、企業が手放した株を買い占めて、筆頭株主となった。鹿内信隆は、ニッポン放送を乗っ取った。
鹿内はフジテレビも乗っ取る
ラジオ局のニッポン放送を乗っ取った鹿内の次なるターゲットは、テレビ局富士テレビ(フジテレビ)の乗っ取りだ。鹿内にとって、勝負どころは持ち株比率である。
最初の関門は、株の配分問題。主導権を握るには、株の割り当てを増やさなければならない。ニッポン放送と文化放送のラジオ2社と大映、東宝、松竹の映画3社の連合軍同士で綱引きが演じられた。結果は、映画3社は併せてわずか20%に押し込められ、ラジオ側が80%の絶対多数を握った。
次の綱引きはラジオ局同士だった。ラジオ側は、ニッポン放送と文化放送がそれぞれ40%ずつ分け合えばよく、対等な関係かと思われた。ところがふたを開けてみると、鹿内は巧妙に金融機関3社に3.3%を割り当てることで文化放送分を36.7%に減らし、ニッポン放送のみが筆頭株主となっていた。鹿内にとって株の優位性は、絶対に譲れない経営の基本であったが、水野はそうした目配りに欠けていた。
フジテレビは産経新聞社に出資し系列に組み入れた。鹿内は、首都東京で、新聞、テレビ、ラジオの3メディアの実権を掌握した初めての経営者だった。
雇われ社長からオーナー社長への野望
鹿内信隆は、財界の雇われ社長からオーナー社長への変身への野望を抱く。財界の先輩である水野成夫という帽子を脱ぎ捨てたからだ。
野望が顕在化したのは、グループの経営を任された68年だ。その年、グループを束ねるフジサンケイグループ会議を結成、「議長職」を設け、自分自身がその椅子に座った。
グループ支配の総仕上げの布石を打ったのが78年である。フジテレビはニッポン放送を引受先とする第三者割当増資を行い、ニッポン放送はフジテレビ株の51%を保有する親会社となった。
ニッポン放送の大株主である鹿内信隆は、とうとうフジテレビなど巨大なメディア企業を株式で支配する体制を確立したのである。
鹿内信隆の長男・春雄が急逝
フジサンケイグループを掌中に握った鹿内信隆は85年に引退した。グループ総帥の座は長男の鹿内春雄に引き継がれた。
春雄は45年5月生まれ。若い時は放蕩三昧の暮らしぶりだったようだ。遊び呆けて慶應義塾高校では進級できなかった。米国に留学したが、ボストン大学も中退。帰国後の70年にニッポン放送に入社した。
「親の七光り」でトントン拍子に出世の階段を駆け上がり、80年6月、フジテレビの副社長に昇進。85年6月、フジテレビ、産経新聞社、ニッポン放送の会長になり、フジサンケイグループ会議の議長に就任した。
放蕩三昧の生活がビジネスに役立った。春雄が異彩を発揮するのはフジテレビ時代だ。かつてフジテレビは二流のテレビ局でしかなかったが、春雄が副社長に就いた80年代、「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチフレーズに、視聴率トップにたつ。フジテレビは「軽チャー路線」と呼ばれ、黄金期を迎えた。
私生活は奔放。NHKの人気アナウンサーだった頼近美津子をフジテレビに引き抜き、その頼近と結婚して、芸能誌を賑わした。三度目の結婚だった。
88年4月、春雄は肝炎を発症して42歳で急死した。緊急避難的なトップ人事で、父親の信隆が議長に復帰した。ここから娘婿の鹿内宏明の出番を迎える。
(つづく)
【森村和男】
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