【連載】コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生(22)
-
-
元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
行政経営フォーラムとの出会い ―修論2003より
平成11年(1999)4月、民間経営手法導入のための組織、市長室経営管理課の主査として福岡市に採用になった筆者の心境は、さあやるぞという気負いとともに、そもそも公約に書いた市役所改革をどうすれば実現することができるのか、正直、心許ないものであった。「まるで罰ゲームをやらされているような」というのも偽らざる心境であった。
「行政経営フォーラム」の存在は、上山信一『行政評価の時代』の出版によって知ることとなるが、ホームページによるインターネットフォーラムの存在は、先の学兄、毎熊浩一君の紹介であった。今にして思えば天の配剤と言うしかないが、福岡市職員採用を期に入会したその直後、5月に兵庫県尼崎市で開催された行政経営フォーラムの尼崎例会(行政経営フォーラムにとっても初の地方例会であった)に参加したのである。このときの感動は、今でも忘れがたい。
例会で発表された改革の動きや新鮮な海外事例といった情報そのものも印象的であったが、筆者にとって何よりも感激であったのは、「改革の志」を同じくする人々と知己を得ることができたことであった。一日にして百年の知己のごとくなるというが、問題意識を共有し、改革への志をともに語ることができたことは、まさにめくるめくような感動であった。このときの出会いが、福岡市経営管理委員会の発足につながっていく。直接的に上山信一さんや石原俊彦さんに委員となっていただいたのみならず、経営管理委員会の理念や運営についても深い影響を受けている。筆者自身、改革というものに対して、受け売りに近い半端な知識や理解しか持ち合わせていなかったと思うが、改革現場のオン・ザ・ジョブ・トレーニングと同時にこのフォーラムにおける切磋琢磨が、改革スキルとマインドを磨き上げてきてくれたと確信している。
「行政経営フォーラム」といえば、メーリングリストである。当時「談話室」と呼んでいたメーリングリストでは、ホットな海外情報の提供をはじめ、各地での実践報告、さまざまなNPM関連の話題についての熱のこもった議論が展開されていた。「行政評価の導入」がもっともホットな話題であったように記憶しているが、各地で孤軍奮闘する改革派公務員に対して温かいエールが送られ、実践者ならではのアドバイスが送られる場でもあった。そして、その「熱さ」の恩恵をすぐに我が身に受けることになるのである。
平成11年(1999)10月、僕ら経営管理課の職員は疲労の極にあった。「経営管理委員会」という異物に対する市役所の拒絶反応、先行きの不安、自分自身の守旧的体質/お役人根性への怒り等々。正直、僕も連日心と頭と体が壊れるような思いで過ごしていた。それを見かねた市職員の会員(馬場伸一君/当時はポートランド州立大学に留学中)が「SOS」のメールを談話室に投げてくれたのである。たちまち、全国から応援と激励のメッセージが殺到した。恥ずかしい話であるが、その温かい心に沁みるメールを読みながら、自宅のパソコンに向かって一人涙を流したものである。理論や実践の面だけでなく、心理的にも福岡市のDNA改革を裏面から支えてくれたのが行政経営フォーラムであった。
〈平成12年(2000)5月1日 市長室行政経営推進担当課長〉
平成12年4月26日に福岡市経営管理委員会から「市長への提言:「行政経営」の確立を目指して~DNA2002計画:市役所の“DNA転換”に向けて」が提出され、僕は5月1日付で市長室行政経営推進担当課長となった。経営管理担当課長から行政経営推進担当部長となった井崎進さんの下に、僕を含め行政経営推進/事務管理担当課長2名、主査4名、職員3名の計10人体制となった。DNA改革の取り組みは、第3章および附録で詳述する。
〈平成13年(2001)4月1日 市長室フォア・ザ・九州等担当課長〉
第1回目のDNAどんたくを2月に開催し、大好評を得て、福岡市のDNA改革は軌道に乗りつつあったろうか?市長周辺では大規模事業点検は何とかこなしていたが、SBCの破綻処理や博多港開発と銀行団とのせめぎ合いも始まるなど、K市長室長一人では手に余る状態になっており(山崎市政発足当時、広太郎さんの市議時代から後援会のとりまとめをしていた田島和義さんが市長室に嘱託として勤務し、交通整理をしてくれていたが、僕が市長室に入ったこともありで、すでに引いていた)、手伝って欲しいとの要請があった。
折から「フォア・ザ・九州」を市長が唱道していて、総務企画局企画調整部の1つのテーマとなっていたので、僕をDNAの担当から外し、フォア・ザ・九州等担当とすることとなった。DNA改革がいよいよ本格化するなかでの異動は、通常あり得ないし、僕自身後ろ髪を引かれる思いだった。このポストには1年で、「フォア・ザ・九州」にはまったく手をつけず、「等」の方ばかり、いわば市長室長補佐のような立場だった。
しかし、こうなると何でもかんでも降ってくる。何(※)をやっていたのか、もはや記憶も曖昧なんだけど、とにかく市長室を出るのは、ほとんど一番最後だった。この頃は持病になっていた腰痛も酷く(今思えばメンタルから来ていたのだろうけれど)、毎晩のように深夜の中洲のサウナに行って、マッサージを受けてじゃないと帰れなくなっていた。
※総務企画局長、副議長の逮捕、SBCの破綻処理や博多港開発融資での銀行団とのせめぎ合い、ケヤキ庭石事件、そのほとんどが前市政からの尻拭いだったが、新たに経営管理委員会の石井委員長の市長選出馬騒動の一方で、2期目に向けた市長公約のとりまとめなど、さらには九大大学院での指導教官だった今里滋さんの福岡県知事選挙への立候補で公約づくりにも深く首を突っ込んだり、どうしてあんなエネルギーが湧いてきていたのか、今思い出しても気が遠くなるほどである。
ファミリーヒストリー(3)
うちの家族では、長女の友里が「広太郎おじちゃん」と言って、広太郎さんに一番懐いていた。高校生のときだった思うが、あるとき市長室をふらっと訪ね、僕はいなかったのだが、ちょうど広太郎さんが秘書課のソファに出ていて、友里を見つけて呼び寄せてくれて、応接セットの卓上にあった、ホークスのキャッチャー城島のサインボールを「これ持って帰りなさい」とプレゼントしてくれた由。当時人気絶頂の城島のサインボールだけに、さぞかし喜んでいるかと思いきや、ホントは「柴原」の方が良かったとのたまわった。僕に似て欲張りな娘で、36歳でweb制作のマネージャーから中学校の国語科の教員に転職し、超ブラックな県教員から今は福岡市内の中学校で忙しいながら、手応えを感じる教員生活を送ってくれているようである。娘を通して学校現場の惨状を知ることとなり、教員の働き方改革が喫緊の課題であることを認識することとなった。(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411関連キーワード
関連記事
2025年2月8日 06:002025年2月5日 11:352025年1月30日 17:002025年2月6日 11:002025年2月5日 15:002025年1月16日 16:402025年1月24日 18:10
最近の人気記事
まちかど風景
- 優良企業を集めた求人サイト
-
Premium Search 求人を探す