なぜ和田三造は『郷土の画家』なのか──《南風》の画家と福岡の絆

 NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」の第6回講座が、2026年8月24日(月)に開かれた。テーマは「郷土ゆかりの画家・和田三造について」。講師には福岡市美術館学芸員・忠あゆみ氏を迎え、明治美術の名作《南風》を生み出しながら、その後は工芸、染織、デザイン、色彩研究へと活動を広げた画家・和田三造(1883〜1967)の画業と、福岡・九州との深い関わりが紹介された。 

《博多繁昌の図》のスライドを示しながら、和田三造の画業を解説する忠あゆみ学芸員
《博多繁昌の図》のスライドを示しながら、
和田三造の画業を解説する忠あゆみ学芸員

文展最高賞の出世作《南風》

 講座は、和田の出世作《南風》の観察から始まった。1907年(明治40年)、24歳の和田が第1回文部省美術展覧会(文展)に出品し、最高賞となる二等賞を受賞した作品である。

 荒波のなかを木造船が風を受けて進む画面。中央には赤い腰巻きのがっしりとした男性が立ち、その傍らには鋭い眼差しの船頭や、不安げに膝を抱える青年。背景には伊豆大島の風景が広がる。この作品は、1902年に和田自身が八丈島への航海中に暴風雨に遭い、約3日間の漂流の末に伊豆大島へ漂着した体験を契機としている。船を軽くするため荷物を海に捨てるなか、若かった和田の荷物だけは船頭が捨てさせなかったという逸話も紹介された。

 中央の男性の肉体描写には、片足に重心を置く西洋美術の伝統「コントラポスト」が用いられ、画面には安定感を生む三角形の構図が取り入れられている。文展初の最高賞受賞で、和田は一躍、新進気鋭の画家として注目を集めた。

修猷館と玄洋社──福岡との絆

 和田は1883年、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)に医師の家の四男として生まれた。兄が大牟田市の鉱山業に従事したことから一家で福岡へ転居し、1898年、15歳で修猷館(現・修猷館高等学校)に入学。玄洋社の付属道場・明道館(現・福岡市中央区赤坂)にも通い、同館には和田が描いた虎の絵や関係者の肖像画が今も伝わる。

 絵を描くことを父に許されず、教師とも衝突した末、1899年に福岡を離れて東京へ。福岡で暮らしたのはわずかだったが、縁は切れず、後に修猷館の後輩にあたる安川第五郎や五代太田清蔵ら実業家とのつながりが仕事へと結びついていく。「一般的な郷土ゆかりの画家とは少し違うが、紐解いていくと間違いなく福岡ゆかりの画家である」と忠氏は説明する。なお、《南風》の中央の男性のモデルには、明道館ゆかりの柔道家・河野半次郎の名が挙がっている。

黒田清輝との出会い、破天荒な学生時代

 東京に出た和田は、西洋式額縁の草分け・磯谷額縁店に身を寄せた後、白馬会洋画研究所に入り、明治洋画界の中心人物・黒田清輝に師事した。忠氏は「九州出身者は新しい技術を積極的に取り入れる傾向があり、黒田に目をかけられた背景には、九州のネットワークがあったのかもしれない」と指摘した。

 1901年に東京美術学校西洋画科選科へ入学した和田は、熊谷守一らと入谷で共同生活を送った。長髪にハスの葉を帽子代わりにするという破天荒な逸話が残る一方、制作には精力的で、茨城県高萩市の牧場に長期滞在して描いた《牧場の晩帰》は、1905年の白馬会創立10年絵画展で白馬会賞を受賞した。

《煒燻》と留学、そしてアジアへの転回

 1908年の第2回文展では、工場の労働風景を描いた《煒燻(いくん)》で再び最高賞を受賞。急速な工業化という時代の主題を捉えた作品で、「波に乗っている主題を見つけ、発表するタイミングが絶妙だった」と忠氏は評する。

 連続受賞をはたした和田は1909年、文部省留学生としてヨーロッパへ渡った。しかし西洋美術の本場での滞在は、必ずしも西洋への傾倒にはつながらなかった。パリで学び、帰国後に洋画界の中心を担うという師・黒田の歩んだ道から、和田は次第に距離を取っていく。

 1914年にヨーロッパを離れた和田は、帰途にインドやビルマ(現・ミャンマー)などで美術・工芸を研究し、1915年秋に帰国。翌年にも再びインドを訪れ、南の国々を「天と直接対話のできる」土地と捉えていたという。帰国後の和田の関心は油彩にとどまらず、日本画、染織、図案、工芸へと広がり、洋画家としての王道から独自の方向へ進み始めた。

南蛮絵更紗《海の幸》《山の幸》──松本健次郎との仕事

 その転換を象徴するのが、1918年に完成した南蛮絵更紗《海の幸》《山の幸》である。北九州市戸畑区の旧松本家住宅(西日本工業倶楽部、国の重要文化財)を飾るため、安川敬一郎の次男で実業家の松本健次郎から依頼されたものだ。同邸は辰野金吾が主宰する辰野・片岡事務所の設計で、和田は斎藤五百枝ら複数の画家や染色職人を束ねるプロデューサーとしての役割も担った。

 《山の幸》には室町時代の鉱山、炭焼き、焼き物、製糸などの様子が描き込まれ、そこに表現された産業は幅広い事業を展開した安川家の歩みとも重なると忠氏は読み解いた。対になる《海の幸》には、長崎・平戸に来航する南蛮船と港のにぎわいが俯瞰構図で描かれ、人を迎える迎賓館という邸宅の性格に呼応するように、交流の場である「港」が題材に選ばれたと解説する。

 制作にあたって和田は平戸の松浦家を訪ね、古い記録や絵図を調べ、現地を歩いて建物を調べたという。歴史資料の調査と大規模な共同制作を組み合わせる、後の和田につながる仕事だった。

《博多繁昌の図》《西都政庁の図》──7年がかりの大作

 福岡との縁を象徴するもう1つの代表作が、福岡市美術館所蔵の《博多繁昌の図》と《西都政庁の図》(ともに1958年完成)である。《博多繁昌の図》は、注文主の五代太田清蔵が所有する東邦生命ビル内・博多帝国ホテルの大広間に飾られていた。

 《博多繁昌の図》は江戸時代初期の博多を上空から見下ろす俯瞰構図で描く一方、南蛮人や船など一部のモチーフは縮尺にとらわれず大きく描かれ、随所の雲が画面を区切る。西洋的な遠近法と非西洋的な表現を組み合わせることで、膨大な歴史情報を1つの画面にまとめた点に忠氏は注目する。《西都政庁の図》は大宰府政庁を主題に、観世音寺や鴻臚館を配して古代九州の政治・外交の広がりを表現した。

 注文主の五代太田清蔵(1893〜1977)は福岡市出身の実業家で、東邦生命保険相互会社の社長。ビル建設予定地から銅銭などの遺物が発見されたことをきっかけに、博多の歴史を物語る絵画を和田に依頼した。ホテルを国際交流の場にしようとしていた太田にとって、かつて国際交易で栄えた博多を描かせることには特別な意味があったと忠氏は読み解く。

 制作は1951年から7年を要し、福岡市美術館には多数の習作が残る。考古学研究に業績を残した九州帝国大学教授・中山平次郎と教え子の奥村武から大量の資料提供を受け、太田とも多数の書簡を交わしながら、歴史研究の成果と想像力を組み合わせて画面をつくり上げていった。

「人事を尽くして天命を待つ」画家の仕事

 忠氏は、和田の創作上の課題を「専門家から提供された歴史的な情報を取り込み、1つの画面に統合してまとめること」と整理する。膨大な調査と習作を重ね、資料だけでは埋められない部分を想像力で補う──「人事を尽くして天命を待つ」ともいえる誠実さが感じられると結んだ。

 《南風》で文展最高賞を射止めながら、留学を機に王道から離れ、染織や図案、色彩研究、映画衣装へと表現の幅を広げた和田。1953年公開の大映映画『地獄門』では色彩と衣装デザインを担当し、第27回アカデミー賞衣装デザイン賞(カラー)を受賞した。1927年には日本標準色協会(現・日本色彩研究所)を創立し、「日本標準色カード500色」を制定。その仕事は「洋画家」の枠を大きく超えていた。

 「一般的には《南風》がピークとされますが、実は留学を機に方向転換し、多彩な領域で優れた成果を残しています」と忠氏。講義の最後には、2027年11月に福岡市美術館で和田三造をテーマとする展覧会を開催予定であることが紹介され、会場から大きな拍手が送られた。

 作家が地域に根差すとはどういうことか。福岡で過ごした期間はわずかだったが、修猷館、玄洋社、安川家、太田清蔵、そして博多の歴史そのものと深く結びついた和田三造の画業は、「郷土ゆかり」という言葉の意味を改めて問い直す講義となった。

【お知らせ】福岡歴史観光市民大学 後期講座の受講生を募集

 NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会では、「第17期 福岡歴史観光市民大学」後期講座の受講生を募集している。

■ 期日
  2026年9月24日(木)〜11月30日(月)
■ 会場
  福岡市民ホール(福岡市中央区天神5-2-2) 
■ 受講料
  10,000円 ※定員に達した時点で締め切り

▼お申し込み・お問い合わせ先  
NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会  
〒810-0042 福岡市中央区赤坂1-7-27-208  
TEL:092-716-8238/FAX:092-716-8254  
E-mail:staff@fukuokajokorokan.info

 前期講座では、鴻臚館と福岡城、中世博多、仙厓、渡来仏、そして和田三造と、福岡の歴史と文化を多角的に見つめる講義が展開された。後期も福岡ゆかりのテーマを学ぶ講座が予定されている。福岡の歴史に触れ、学びを深めたい方は、ぜひこの機会にお申し込みいただきたい。

【児玉崇】

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