福岡地所・榎本一族の「最大の資産」は受け継がれる独立独歩の精神(2)
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信念を貫き通す
福岡無尽の経営者・四島一二三氏の日課は次のようなものだった。
毎朝3時40分に起床。山羊や鶏の世話をした後、軽い朝食をとり、仏壇に向かって「発願文」を朗読。そして、家を出て徒歩で正光寺へ行き、長男・孝(5歳で死去)の墓前に参る。辺りを清掃した後、5時の始発電車に乗って出社。これがそのあと30年余り続いた。福博の名物となった「四島の一番電車」である。一二三氏が出社前、毎日唱えたという「発願文」の最後の一行は、「希望なきは死なり 満足は腐敗なり」。己の信念を貫き通す一二三氏は自社にとどまらず、社会的にも存在感を強めていった。1938(昭和13)年10月には、周囲に請われるかたちで福岡市議会議員選挙に立候補し、初当選。同選挙で最大会派となる「愛市同盟」のなかでトップの得票数だった。しかし、同会派による市議会正副議長の独占に異を唱えて反発。一二三氏が推薦した野党側の副議長候補が当選したことで会派内の批判を受けて同年11月に議員を辞職した。
国家権力の圧力にも屈しなかった。太平洋戦争で日本の敗色が濃くなるなか、「金融事業整備令」のもと統合が進められ、福岡県内の無尽会社は、小倉の西日本無尽、南筑無尽、共立無尽、九州無尽、三池無尽、そして福岡無尽の6社に統合されていた。
この6社を含め、九州すべての無尽会社を野村銀行(のちの大和銀行、現・りそなホールディングス)の傘下企業として統合するのが国の思惑だ。福岡無尽は、野村銀行の傘下入りに反対の意思を示し、国側の斡旋、呼び出しにも応じず。ついには、野村銀行の頭取が一二三氏のもとへ直談判に訪れた。「合併には同意するが、新会社の株式の半数を買い受けることが条件」というのが一二三氏の絶縁状ともいえる最終回答である。
戦局の悪化で、国策に背く一金融機関への対応どころではなくなったのは不幸中の幸い。44年12月、福岡無尽を除く5社で西日本無尽(株)(のちの西日本相互銀行)の新設合併が行われた。福岡無尽は独立を守った。さらに戦後は、国の支援に頼らず、自主再建を行っている。
51年10月、福岡相互銀行が誕生し、一二三氏は初代社長に就任。この時、71歳。「最大の会社ならずとも最良の会社となれ」。金融業の本質は単に金勘定ではなく、必要とする人物へ資金を供給し、事業を支援、育成することにあるという「興産一万人」を信条とし、各支店への「お客さま行脚」を開始した。
この「お客さま行脚」は1950年に始まり、90歳過ぎまで続いた。60年代の最盛期には、1年で平均1,300軒以上の顧客を廻ったという。顧客をトップが訪問して御礼をいい、その声を経営にフィードバックさせる目的もあったが、訪問先は重複しないという条件があった。訪問を受け入れる各支店では、一二三氏が訪問するに相応しい顧客を常に開拓し続けなければならないという命題につながっていた。
一二三氏は76年11月1日、死去した。享年95歳。
(つづく)
【山下 康太】法人名
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