九州企業の衰退・勃興 平成を振り返る(9)
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都市発展に伴って不動産業界が急成長、悲喜こもごものドラマが展開される
自殺をもって決着、二重三重のローンで懲役刑
宮崎市の目抜き通りに「大蔵住宅」の看板が残っている。看板が残っている場所にある古いビルに大蔵住宅宮崎支店があった。同社は平成4年2月に倒産している。バブルが弾けて1年半(弾けたのが平成2年9月)後のことだった。大蔵住宅は福岡における建売住宅の草分け的な存在で当時、地元でトップクラスのテレビコマーシャルを打っていた。
同社社長は社長室で服毒自殺を図り、経営不振の責任をとるという選択をした。わがままで、豪傑であったが、生き恥をさらすのが耐えられなかったのであろう。
大蔵住宅出身者が興栄ホームという会社を興した。この会社は、「大蔵に追いつけ、追い越せ!」を合言葉に新参者の強みを発揮し、大蔵住宅に並び、追い抜いていった。しかし、実体は無理な住宅ローンの画策をしており、刑事事件として社長が逮捕され、実刑を受けた。倒産したのは平成3年秋のことである。
大蔵住宅と興栄ホーム、両社社長の仲はお互い愛憎が交錯した複雑なものであった。両社とも「すばらしい環境の住宅を提供する」という理念は稀薄で、不動産を住宅用に開発して儲けることを優先させたビジネスモデルであった。
悪口を言い合い、ライバル関係にあった仲間たち
シリーズ(7)で触れたので倒産した企業名は省略する。福岡におけるマンション創業時代の経営者たちの年齢は昭和9年から12年生まれの枠内に収まっているのが興味深い。同世代なので、相手の動きに関心があるし、悪口もいう。情報マンとしての腕の見せ所は、関心のあるライバル会社の知らない情報を提供することであった。ここで相手の悪口を言ってはいけない。「愛憎交錯した」間柄なので、一方では深い交友関係があるのだ。うかつに陰口をたたけば、怒り心頭となり、こちらをどやしつけてくることもあった。
何はともあれ、この時代のマンション業の経営者たちは誰もが非常にパワフルである。負けず嫌いの精神を人の10倍はもっている。ゴルフでも麻雀でも負けることを潔よしとしない。しかし、残念ながら建売業者と同様に所詮、不動産屋としての思考が先行する人たちである。「この場所に何戸建られるか?いくら儲かるか?」について考えることにしか関心が無かった。結局、この世代で生き残ったのは新栄住宅しかなかったのである。
リーマン・ショックでも同じことの繰り返し
最初は清掃業からスタートして次にマンション管理業へ転進し、ついに販売に乗り出した新興勢力に丸美という会社があった。「リーマン・ショック」前に中央区赤坂で「バブル塔」と呼ばれていたビルを所有して俄然、注目を浴びた。同社はバンカーを垂らし込むことでも異能さを示していた。また、倒産した同業者の物件を買い漁ったり、飲食店経営に乗り出したりと派手な動きも展開していたのだ。この派手さが永続きするわけがない。最後は詐欺罪で逮捕された。もうそろそろ刑期を終えたのではなかろうか!
業界では「地方のドサ周りはいずれ行き詰る」という鉄則がある。「リーマンショク」までは新興勢力として急成長した理研ハウスの動向が注目の的になっていた。同社は、この業界の鉄則を打ち破り、隆々とした経営を行い「リーマン・ショック」を巧みに回避したのである。ところが難関が待ち構えていた。中国進出が裏目となり、開店休業状態となった。しかし、金をしこたま残したのは事実。平成初頭に行き詰った先輩たちが無一文になったことと比較すると「見事、あっぱれ」世代の違いを感じさせられる。
ただ残念なことに平成の初頭に先輩たちが「上海に10万戸のマンションを建設」を計画したことがあったが、ものの見事に挫折した。この教訓を見習って理研ハウスが中国への進出を中止していたら、今では福岡有数の業者として活躍していたであろう。
ソロン・ユニカは惜しまれる
ソロン倒産の直接の原因はオーナーの難病(筋萎縮性側索硬化症)で陣頭指揮ができなかったことだ。同社の田原社長はバブル崩壊以降、業界の一時代を牽引した功労者である。田原氏は「業界で悪口を言い合い、お互いに足を引っ張るのをやめよう」と業界のレベルアップに努めた人で、業界健全化への先導役を担った。なぜ、難病を発症したのかは不明。用心深い人だったが初期段階の対応が遅かったのが悔やまれる。詳細は追悼文を参照。
ユニカの社長は次の業界代表として結束を強める役割をはたした。平成2年、大名に新社屋が建った。案内を受けた際のこの社長の自信溢れる顔をいまだに忘れない。同社の社長は「逃げてはダメ」という人生における信条をもっている。信条通りに逃げ隠れせずに会社を清算したのはお見事。社員たちの活躍の場もしっかり確保したうえでの処理であった。ユニカ社長を見て世代交代を痛感した。「その後、続々と登場しだした世間の常識が通用する経営者たちの先駆け的存在だった」のだ。
2社の社長に共通する行動パターンは福岡地所の処理物件を引き取ったことである。同社の処分物件、東区香椎浜をユニカが、空港横の住宅展示用跡地をソロンが引き取った。2社の代表とも「福岡地所・榎本オーナーに恩を着せよう」という魂胆を抱いていたのであろう。結果、福岡地所は身軽になって2社は借入過多となった。ここから「福岡地所の処理物件を引き受けると己が厳しくなる」というジンクスが生まれた。
舛田氏には頭が下がる
シリーズ(7)で触れた平成初頭のバブルが弾けて倒産した代表的銘柄として舛田住宅が挙げられる。負債は1,000億円に迫っていた。代表の舛田憲二氏は現在83歳。倒産後、細々と管理業で飯を食べていた。7年前、久しぶりに会って当時を回顧してもらったことがある。「平成20年のリーマン・ショックの前には事務所にいても1週間、訪問者が誰1人いなかったこともあった。あー、俺のビジネス人生も終わったな」と観念したそうである。
話は続く。同年、ひょんなことから博多駅南の不動産と縁ができた。「この不動産に賃貸マンションを建てよう」と事業計画を練り上げ、スムーズに銀行からの融資をひき出した。「一度、好転するといろいろな情報、さまざまな人たちが集まり始める。最後のチャンスがやってきた」と確信したそうだ。そこから賃貸マンションの建設を始めた。舛田憲二氏のような仕事好きで不屈の精神力をもった人にはお目にかかったことがない。
(つづく)
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