【企業研究】老舗復活なるか、福岡から完全撤退の太陽家具
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(株)太陽家具百貨店
老舗家具販売業者の(株)太陽家具百貨店。お膝元の山口県を皮切りに、かつては九州(福岡・大分・熊本)や、関東・関西圏にも出店するなど、20店舗以上展開していたが、今年4月に北九州東店を閉店し福岡から完全撤退。店舗数は5店舗まで減少している。
山口を代表する創業75年超の老舗
(株)太陽家具百貨店は木工所で修行を積んだ川崎敦将氏が独立し、1947年4月に山口県宇部市で太陽家具製作所を創業したのが始まり。敦将氏は創業後ほどなくして、福岡県内の土地を買収し高値で売却するなど、不動産投資にも挑戦。また、日本画や陶磁器の収集を積極的に行うなど、20代で相応の資産形成を図っていた。この経験は、後の多店舗展開にともなう用地の取得や、自身の収集品を公開する川崎美術館のオープンにも生かされている。
太陽家具製作所では家具の製作と直販を行っていたが、小売業への進出と同事業の強化を目的に、54年、屋号を「太陽家具百貨店」に改称。販売商品の仕入れや、メーカーとの連携を円滑に進めるべく、家具のまち・大川市(福岡)に仕入部を設置するなど、業容を拡大していった。そして、63年11月に(株)太陽家具百貨店(以下、太陽家具)の商号で法人化すると、以降「TAIYO」のロゴを掲げた店舗を山口県内各地に展開していき、地元での存在感を高めていった。
山口県外への出店に関しては、72年に小倉店(北九州市)をオープンし九州初進出をはたすと、84年までの間に東福岡店と西福岡店、大分店や別府店を次々とオープンさせ、九州でも商圏を広げていった。短期間での出店攻勢により、太陽家具は山口と北部九州を中心に家具屋としてのブランディングに成功。勢いに乗る同社は85年、市場拡大に向け広島県にも出店している。
異業種との競争激化とSH会発足
多店舗展開も進み、順調に事業を伸展させていた太陽家具だったが、80年代の業界の活況は、新たな競合を生み出した。家具・インテリア部門の拡充に注力していたスーパーや百貨店だ。とくに日用品のみならず、家電や家具も取りそろえた総合スーパー(GMS)は、消費者からの支持を集め躍進。異業種との競争激化に危機感を募らせた家具・インテリア業界では、ニッポンインテリアチェーン(NIC)や日本優良家具販売協同組合(ジェフサ)など、業界団体の結成が相次いだ。
太陽家具も宝船屋(埼玉)、服部家具センター(愛知)などとともに、81年、全国家具連盟会(SH会)を発足。共同での一括仕入れに独自ブランドの製品開発、販促用のチラシ製作やキャンペーンの実施などを行った。SH会の加盟企業は86年時点で10社を超え、全国への配送ネットワーク構築にも乗り出すなど、着実に成長していく。
太陽家具は同年6月期に79億4,900万円の売上高を計上。好調を維持しており、さらなる業績アップを目指して既存店の改装に着手。それまで不揃いだった店舗の外観を統一するなど、イメージの刷新に取り組んだ。翌87年には、仕入部と営業部を統合するなど、組織改編も行っている。同業者だけでなく、異業種との競争も激しさを増していくなかで、同社が見せた既存店へのテコ入れと組織編制からは、絶対に勝ち抜くという強い意志が感じられる。
群雄割拠の家具・インテリア業界で、一目置かれる存在となった太陽家具。同社を有力企業に育て上げた敦将代表は、98年にSH会の会長に就任。2016年から17年に逝去するまでは名誉会長として、業界の未来のために尽力した。
バブル崩壊後も続いた積極投資
既存店のテコ入れによって、来店客の滞留時間の増加と、客単価の向上に成功した太陽家具。90年には当時国内最大規模となる売場面積約1万m2の「ライフステージTAIYO」を北九州にオープンさせた。このまま同社の快進撃が続くかと思われたが、その矢先に日本経済をバブル崩壊が襲う。
消費活動が著しく鈍化するなか、太陽家具の地元山口、広島などの中国地方や北部九州で(株)ナフコ(北九州)との競争が激化。太陽家具は物流コストの削減にも努め、宇部市内(山口)に点在していた倉庫や配送センターの機能を集約するため、92年、総工費約10億円の宇部流通センターをオープン。翌93年には、東福岡店などの既存店のリニューアルを行ったほか、約20億円をかけ宇部市内に店舗機能を備えた本社ビルを新設した。その後も96年にライフステージTAIYO飯塚穂波店と北九州東店の2店舗を、97年に福岡筑紫野店をオープンさせるなど、福岡を舞台にドミナント戦略を加速。97年は創業50周年の節目の年でもあり、創業者である敦将氏(当時71歳)が会長に、同氏の長男で副社長だった敦祥氏(同48歳)が社長に就任するなど、同社にとって第二創業期のスタートとなった。
このころから、家具とインテリアの総合店舗「AMBIENCE(アンビエンス)」の出店によるマルチブランド展開への挑戦も本格化しており、バブル崩壊後も攻めの姿勢を崩さなかった太陽家具の同年6月期の売上高は130億円を突破した。
店舗再編で福岡から完全撤退
太陽家具は中国地方と北部九州に加えて、2000年以降、関東や関西にも商圏を広げていき、店舗数は20店舗を超えた。一方で、2000年代以降は家具・インテリア業界の環境が変化していく。
バブル崩壊後の長引く経済の停滞、核家族化や単独世帯の増加、少子高齢化などにより低水準で推移する新築住宅の着工戸数の影響などを受け、家具・インテリアに対する需要が縮小。家具小売業の年間商品販売額は、1991年の約2兆7,000億円をピークに、2007年には約1兆3,000億円まで減少し、12年には1兆円を割り込んでいる((一社)日本家具産業振興会発表資料参照)。
こうした状況のなか、太陽家具は店舗再編に踏み切り、不採算店舗を次々と閉店していく。12年には関東、関西から撤退。20年に福岡市内から姿を消すと、23年4月の北九州東店の閉店をもって、福岡から完全撤退した。08年時点では30店舗体制も見えていた同社だったが、今では創業の地である山口県下で5店舗を残すのみとなっている(23年5月末時点)。
細る市場のなかで、ニトリやIKEA、無印良品などの低価格での家具・インテリア販売を強みとする勢力も台頭。店舗の閉鎖も重なり、太陽家具の業績は低迷していく。一時は130億円を超える売上規模を誇っていた同社だったが、関東、関西撤退後の12年6月期には売上高が56億円まで減少。店舗閉鎖にともなう減損損失の計上もあったものと推察され、4億円超の最終赤字となった。この時点で積み上げてきた利益剰余金額は43億4,800万円に上り、自己資本比率は54%と、財務基盤の強固さは健在。13年には、4億9,000万円だった資本金の額を1億円まで減資し、減少分の3億9,000万円を資本準備金に計上するなど、消費不況による収益性悪化への備えを固めている。
14年6月期は増収に転じ、前期に引き続き最終利益も確保したが、店舗閉鎖による減収傾向に歯止めがきかないなかで、15年6月期以降は赤字基調が定着している。20年には資本金額を9,000万円減少するなど、再び減資を行った。同年6月期の自己資本比率は依然50%を上回ったものの、利益剰余金は16億7,000万円まで減少した。
不採算店舗の閉鎖と、それにともなう相応の経費削減効果も手伝い、22年6月期は最終赤字からの脱却をはたしたが、売上高は30億円を下回るなど、中国地方を代表する家具屋だったころの勢いは感じられない。
太陽家具では割安で家具を購入できる月3,000円からの積立て制度「友の会」を実施して既存顧客の囲い込みを図っている。また、アンビエンスなどの店舗ブランドはなくなったものの、ソファやキッチンボードなど主要な家具を10のカテゴリーに分類しコーディネートするなど、販売方法に趣向を凝らしている。他社との差別化は今でも試行錯誤のなかで行われており、今後独自性を発揮できるか注目される。ただ、現在家具・インテリア業界で消費者からの支持を広げているのは、低価格ながらデザイン性に富み、オンラインでも気軽に購入・配送手配可能なビジネスモデルを構築している企業群だ。太陽家具は地元山口への貢献度の高い企業でもあり、老舗の復活に期待したい。
【代 源太朗】
<COMPANY INFORMATION>
代 表:川崎 敦祥
所在地:山口県宇部市東藤曲2-5-30
設 立:1963年11月
資本金:1,000万円
売上高:(22/6)29億5,000万円法人名
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