身体をもたない知能「AI」(4)計算できないもの~量子力学と脳をめぐって
福岡大学名誉教授 大嶋仁
ペンローズが問う脳とAIの違い
物理学者としてノーベル賞を受賞したロジャー・ペンローズは、AIの仕組みは「人間の脳」のはたらきとはまったく異なったものだと強調する科学者の1人である。彼は脳が「有機体」であるのに対して、AIが「無機的」であるといったことを言いたいのではない。現代物理学の最大の達成である量子力学の観点から、脳のはたらきを電子的にしかとらえないAI製作者たちを批判しているのである。
そこで「電子」と「量子」の関係であるが、物理学を知らない私は、その発見過程を見ることでしか理解できない。少なくとも電子は微小粒子であって、私たちの存在を離れた物質だと割り切ることができるのに、量子となると私たちの存在がその存在に関わってくるもので、「粒子」として見ることもできれば「波動」と見ることもでき、要するにエネルギーそのものなのだということになるのである。こうなってくると、電子と量子の違いは物質レベルでのみ議論することはできないことになる。自然界をどう見るかという問題と、深くかかわるのだ。
科学と哲学の境界を越える
つまり、これは科学の問題であると同程度に、哲学の問題なのである。科学は人間存在を外して考えることが許される世界だが、哲学は人間存在についての反省の上に成り立つ。そのことを十分自覚したうえで、あえて現代科学の土台に切り込んだ哲学者といえば、20世紀前半に活躍したエトムント・フッサールとアンリ・ベルクソンであろう。ただし、ここでは人文主義的な伝統の擁護に回ったフッサールよりは、思い切ってアインシュタインに挑戦したベルクソンのほうを取り上げたい。
というのも、ベルクソン研究者はなんというかわからないが、ベルクソンこそは量子力学的な考え方をした哲学者の典型であり、であればこそ、アインシュタインとは理解し合うことができなかったのである。アインシュタインは最後の最後まで物理学者、すなわち物質世界を扱う人であった。彼は量子論の推進者であるニルス・ボーアが物理学に「確率論」を導入すべきだという申し出を拒否した。このこと自体は決して彼が「哲学の敵」となったことを意味しないが、ベルクソンの再三の誘いにもかかわらず、古典的な物理学の側にとどまったのである。
ベルクソンの創造的進化論
私の知る限り、ベルクソンは量子力学について一言も言っていない。彼はあくまでもアインシュタインの相対性理論に物理学の達成を見ていたのであり、量子力学にはさほど惹かれるものがなかったかもしれない。彼の基本的立場は「創造的進化論」であり、生命エネルギー論である。物質世界はこの創造エネルギーの固結相に過ぎず、全体としてこのエネルギーは不断に放出され続けていると見るのである。ちなみに、これを日本的にいうなら、『古事記』の冒頭に出て来る「ムスヒ」(産霊)の世界観ということになる。
ベルクソンの立場から量子力学を見るならば、おそらく量子は流動し続けるものであって、常に物質の固結相を追い求める物理学、すなわち原子論的な物理学ではとらえ切れない。ベルクソンは科学を世界の不動な面、すなわち固結した相を探求するものとして承認し、同時にそれだけでは、動いてやまないこの世界をとらえ切ることはできないと見ていた。私の勝手な解釈では、彼はアインシュタインにもそういう動的世界へのまなざしがあると感じ取り、それでこの物理学の天才に語り掛けようとしたのである。だが、アインシュタインは自身の土壌を離れるのが怖かったのか、この誘いに乗らなかった。
量子脳理論と生命の創造性
さて、話を先のペンローズに戻すと、ペンローズがベルクソンを知っているかどうかは別としても、彼が脳科学の哲学的基礎に量子力学を導入したことの意味は極めてベルクソン的だと思わずにいられない。少し無理をして彼の量子脳理論をベルクソン哲学と結びつけると、ペンローズは人間の脳を生体として、すなわち「創造的エネルギー」の不断の発露としてとらえているということになるのである。彼がAIの製作者がいくら人間の脳に近いものをつくろうとしても限界があり、その限界を超えることはできないと主張するのは、この当然の帰結であろう。
とはいえ、このような議論をこれ以上進めることは、物理学を知らない私にはできない。「状況証拠」しか挙げられないのに「犯人」を確定しようとしているようなもので、かゆいところに手がとどかないのである。専門家の識見を待ちたい。
現代科学に欠ける哲学的反省
それにしても、量子力学が誕生して1世紀が経過しているのに、世の中の多くの科学者が、あたかも量子力学は物理学の例外的存在であるかのように見ているのが解せない。たとえば宇宙の問題や素粒子の問題を探求する物理学者は、仮にも量子力学の諸前提を受け入れていたら、その研究の在り方が根本から変わってしまうはずなのに、一向にそう見えないのはどういうことか。
下衆の勘ぐりかもしれないが、もしかすると、今日の多くの科学者は哲学の素養がまったくなく、自らの研究を哲学的に反省し、その反省から新たな地平を開こうとする姿勢に欠けているのではないか。言い換えれば、彼らは既成の学問研究システムに乗っかって研究を進めているだけなのではないかと思われるのである。
(つづく)








