2024年11月25日( 月 )

孫正義氏は「裸の王様」になったのか?~「投資判断がまずかった」と懺悔(前)

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 「『ソフトバンクはもう倒産するのではないか』という報道があった。市場がそのように見ているのなら、ある意味では正しいと思う」。孫正義氏は、米シェアハウス大手ウィーワークの投資に失敗し、信用不安が拡大していることを認めた。非常事態だ。どこでボタンを掛けまちがえたのか。

ウィーワークに2兆円注ぎ込む

 「今回の決算、ボロボロだ。真っ赤っかの大赤字。まさに大嵐という状況だ」。

 ソフトバンクグループ(SBG)の孫正義会長兼社長は、2019年9月期中間決算で、155億円の営業赤字(前年同期は1兆4,207億円の黒字)に転落したことを謝罪した。15年ぶりの営業赤字だ。

 投資先のシェアオフィス大手、ウィーワークが経営不振に陥り、ファンド事業で約5,700億円の損失を計上した。さらに、同社に総額約1兆円の支援を計画しており、再建が難航すれば損失は膨らむ。市場では「倒産説」が流れた。

 孫氏は「私の投資判断がまずかったと大いに反省している」と述べた。ウィーワークの投資については、「良い点を見過ぎていた」という。

 数々の投資を成功させてきた孫氏に目の曇りがあったのだろうか。

 孫氏には強烈な成功体験がある。中国のインターネット通販最大手アリババグループは2014年、ニューヨーク証券取引所に上場した。同社株の約3割をもつ筆頭株主のソフトバンクは約8兆円の含み益を得た。孫氏は、アリババの創業者のジャック・マー氏と面会して、5分で投資を決め、2000年に20億円を投資した。14年で4000倍のリターンだ。

 携帯電話事業を切り離し、投資に特化しているSBGは10兆円ファンドを通じて、「ユニコーン(一角獣)」と呼ばれる海外の新興企業に投資し、第2のアリババにすることを狙った。しかし、その投資モデルが暗転した。

 米シェアオフィス「ウィーワーク」を運営するウィーカンパニーの創業者、アダム・ニューマン氏に孫氏が惚れ込み、SBG全体ですでに約1兆円を投じていた。しかし、ウィー社の乱脈経営が問題視され、上場計画が頓挫。上場させて持ち株を売却して利益を得る算段が狂った。引くに引けなくなり、SBGは追加で約1兆円を投じる羽目になった。

「趣味的」と批判された投資手法

 孫氏が後継者として招いたニケシュ・アローラ副社長は、孫氏の投資手法を「趣味的」と批判した。リターンを得ることを投資と心得ているアローラ氏にとって、惚れ込んだ相手に資金を湯水のように注ぎ込む投資手法は、理解を超えるものがあったようだ。夢を追う孫氏に付き合いきれず、2016年に去っていった。

 孫氏のウィー社への投資は「趣味的」手法の最たるものだ。ウィー社の創業者に惚れ込んだからだ。読みが当たれば莫大なリターンが期待できる半面、外れれば底なし沼のリスクを背負い込むことにもなる。

 孫氏の持ち味は、アクセルを全力で踏み続けることにある。しかし、アローラ氏という相棒を失い、ブレーキが利かなくなった。

 これまでソフトバンクの発展段階ごとに、孫氏にはビジネスパートナーがいた。軍師、参謀、指南役といってよい。いまの孫氏には軍師がいない。これが最大の問題だ。

軍師第1号は大森康彦氏

 1981年3月、孫正義氏はアルバイトの社員2人を雇って、ソフトバンクの前身である企画会社ユニソン・ワールドを興した。福岡市の南部、雑餉隈の雑居ビルの2階で行った最初の朝礼で、みかん箱の上に立った孫氏は「30年後のわが社を見よ」と1時間にわたってぶち上げた。

 「わが社は30年後には豆腐のように1兆(丁)、2兆(丁)と数えるぞ。1,000億円、500億円はものの数ではない。1兆円、2兆円と数えて、初めて本物だ!」

 あまりの大言壮語ぶりに、アルバイトの2人は「この人はおかしいのではないか」とあきれ返り、2週間もしないうちに辞めてしまった。だから、孫氏1人での起業となった。

 孫氏が講演会でよく口にする起業当時のエピソードである。

 福岡で立ち上げた企画会社で、将来性のありそうな事業をピックアップ。そのなかから選んだのが、パソコンソフトを流通させるビジネスである。

やるからには、東京で起業すべきだ。

 1981年9月、東京・千代田区に日本ソフトバンク(後にソフトバンクに改称)を設立した。机2つだけの、ささやかなスタートだった。孫氏24歳の時である。

 だが、不運がつきまとった。創業2年の83年春に、重いB型肝炎に感染していることが判明した。当時、B型肝炎は不治の病といわれていた。およそ3年間、入退院を繰り返した。社員も取引先も去った。資金難が知れ渡り、広告掲載を拒否されるなど苦難が続いた。

 孫氏は日本警備保障(現・セコム)の副社長だった大森康彦氏を社長に招き、自身は会長職に退いた。大森氏は、それまで大学のサークルの延長のようだった経営をしっかり組織された企業へとかえた。

 孫氏は療養後の86年2月、社長に復帰した。大森氏は孫氏の軍師第1号だった。

 孫氏は病床で考えた。「どうせ1回しかない人生。悔いを残さないようにガンガンやろうじゃないか。そのほうがずっと面白い」

(つづく)
【森村 和男】

(後)

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