【再掲】2050年代を見据えた福岡のグランドデザイン構想(17)~福岡は現状維持くらいがちょうどいい?
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C&C21研究会 理事 下川 弘 氏
現在の福岡市は160万人もの人口を抱え、名実ともに福岡県内のみならず九州の中心都市である。それは間違いない。すると、「福岡は今のままぐらいがちょうどいい」「福岡はこれ以上発展せずに、現状維持でいいのではないか」――というような意見も少なからず出てくる。
では、「現状維持」とは、いったい何だろうか。
福岡が今と同じような経済規模で現状を維持していくためには、世界経済――とくにアジア周辺や、国内外の近隣都市も同様に「今のままで、これ以上発展しない」という条件下でのみ成り立つということを忘れてはなるまい。しかし、そんなことはあり得ない話だ。
周辺に関係なく福岡だけ現状を維持する(停滞する)ということは、相対的に、成長著しい近隣都市の後塵を拝することを意味する。つまり、現状維持とは「衰退」と同義といっても過言ではないのだ。
都市の栄枯盛衰が激しいのは、筆者が改めていうまでもなく、これまでの歴史が証明している。
Map data (c) OpenStreetMap contributors, CC-BY-SA /一部加筆
身近なところで、九州における都市の栄枯盛衰を考えてみよう。まず、江戸時代に九州のなかで最も文化が開けていたのは、やはり長崎ではないだろうか。鎖国下で唯一開かれていた「出島」にはオランダ屋敷が建ち並び、外国との文化交流や通商の窓口として、異国情緒たっぷりの日本の玄関口として繁栄していた。
明治初期には、幕末の志士「薩長土肥」の肥後藩士が明治政府に入り、鎮西鎮台や第六師団、熊本葉煙草専売所(日本専売公社の前身)、熊本逓信管理局(日本郵政・NTTの前身)などの国の重要出先機関を多く設置。鉄道唱歌で「九州一大都會」と歌われるなど、九州の中心地は熊本に移った。
明治後期になると、日本でも産業革命が起こった。すると、1901年の官営八幡製鐵所の操業を皮切りに、内務省・日本銀行、門司築港会社、出光商会などが北九州(当時は門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市)に次々とでき、九州における都市の重心は北九州へと移っていった。63年2月には旧・5市が合併して北九州市が誕生し、同年4月には九州で初めての政令指定都市となるなど、戦前・戦後期の九州における中心地は北九州であった。
江戸期には黒田藩(福岡藩)の城下町であり、博多商人の町としても賑わっていた福岡ではあるが、今のように九州一の都市としての地位を獲得したのは、75年3月の山陽新幹線・博多駅の開業によるところが大きい。博多までの新幹線延伸が決定したことで、都市の開発が進み、北九州市に遅れること9年後の72年4月に、九州で2番目の政令指定都市となった。その後、北九州市の人口を抜いて名実ともに九州一の都市となったのは、79年のこと。実は、まだ40年と少ししか経っていないのだ。その地位も、決して不動のものではない。
(つづく)
<プロフィール>
下川 弘(しもかわ・ひろし)
1961年生まれ、福岡県出身。熊本大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程を修了後、87年4月に(株)間組(現・(株)安藤・間)に入社。建築設計第一部や技術本部、総合企画本部企画部などを経て、99年1月には九州支店営業部に配属。その後、建築営業本部やベトナム現地法人、本社土木事業本部営業部長などを経て、2020年9月から九州支店建築営業部営業部長を務める。社外では99年9月からC&C21研究会事務局長(21年8月から理事)を務めるほか、体験活動協会FEA理事、(一社)日本プロジェクト産業協議会の国土・未来プロジェクト研究会幹事、(一社)防災教育指導協会顧問など数々の要職に就いている。関連キーワード
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