2024年11月05日( 火 )

旅の本質に見え隠れするもの(続)(後)

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 来年、『高田瞽女(ごぜ)が見た昭和の原風景と人の情け』(仮題・平凡社新書)を上梓する。目の見えない女だけの遊芸人(ゆうげいにん)、瞽女。彼女らもまた生きるために旅をした。全盛期、瞽女は南は鹿児島から、北は東北・北海道まで全国的に存在した。越後の瞽女が東北地方を旅したり、北前船で北海道にわたって江差など鰊漁(にしんりょう)で賑わう漁村を回ったという。商売になればどこにでも出かけ、力強く生きてきた。

年に一度の瞽女の唄

信州 イメージ 瞽女の旅は、季節ごとに訪ねる村が決められていた。信州の旅は必ず夏に行われるという具合である。涼を求める旅という意味もあった。高田近くの新井近郊の旅は冬に出かけたので、「雪降り瞽女」。三月に行く旅は、「彼岸瞽女」といわれた。毎年同じ季節に同じ村を訪ねた。こうすることで「馴染みの家」が生まれやすい。それは商売の売上に直結する。

 村に着くと、まず今日泊まる家(瞽女宿(ごぜやど):馴染みの家。主に地主や自作農家)に荷物を降ろし、空身になって三味線一挺と袋(米などを入れる)をもって一軒ずつ門付(かどづけ:農家の玄関や勝手口に立ち唄をうたう。このとき米などをいただく。これを「喜捨」という)をした。門付唄は、『こうといな』や『かわいがらんせ』などの短い唄をうたう。門付は喜捨を乞うという意味もあるが、今夜瞽女宿で行われる宴会の前宣伝も兼ねている。

 昼食時には、前日泊まった瞽女宿からいただいた弁当を農家の縁先を借りて食べる。キクエらの場合には、奥座敷に通され、そこで茶や漬け物、山菜の煮付けなどがふるまわれた。昼食を持参していない場合でも喜んで食事を提供してくれた。門付が済むと、瞽女宿に戻りひと休み。夕方になると風呂をいただき、夕食をいただく。風呂はその家の旦那が入った後の二晩風呂が多い。食事は座敷の上座に招かれるか、与えられた寝所でゆっくり食べることができた。

 夕飯を食べ終えたころになると、村人が三々五々集まり、年に一度の瞽女の唄を聴くことができた。娯楽の少ない時代には、かけがえのない楽しみの1つといえた。酒肴持参の男たち、子どもの手を引いた女たち。老いも若きも瞽女宿の大広間に集まった。

 座敷の上座に据えられた瞽女らは、まず「宿払い(宿賃を支払う意味)」程度に民謡や短い語りものなどを披露する。小一時間もすると宿払いは終わり、あとはリクエストタイムとなる。一番人気は『葛野葉(くずのは) 子別れ』という段物(語りもの)である。信田狐(しのだきつね)の子別れの物語で、聞くものはきまって嗚咽(おえつ)したという。

 夜も十時を過ぎるころには女衆や子どもたちに代わって男たちの時間となる。こうして夜中の午前3時、4時、夜が明ける頃まで続くことが珍しくなかった。翌日、朝食後、空の弁当箱にご飯とおかずを詰めてもらい、次の村へと旅立つ。貯まった米は、途中にある米屋で換金した。

生きるために旅に出る瞽女

 瞽女は結婚ができない。さまざまな「掟」があり、これを遵守することで瞽女自身が組織(座)に守られたのである。瞽女は盲女の遊芸人らである。晴眼者の社会からは一段低く見られる存在である。ところが、「瞽女と村人」という関係には、特別なヒエラルキーがない。宿まで提供されるという厚遇を受ける。盲女たちが目明き(晴眼者)から歓迎されるのである。これは瞽女と村人との間に、単に「唄を提供」=「喜捨の供与」という図式だけでははかりきれない何かが存在した。恐らく瞽女自身が、世俗的な部分と神秘的な部分とを渾然と一体化させながら、俗世間とは完全に一線を画す。「瞽女は俗世間に住む村人とは違う存在」を誇示する必要があったのだ。

 それが「瞽女式目(ごぜしきもく)」を所有するということであった。そこには、嵯峨天皇の第四子の宮が瞽女の先祖であると記されてある。つまり彼女らの先祖は、由緒正しい血筋を引く人々である。瞽女にとって組織(座)を守るうえで、血の正当性がぜひとも必要であった。弱者が強者の間で生きていくための最重要アイテム、つまり生活上の知恵だった。

 最盛期、八十人もいた高田の瞽女。村にもラジオが入り、やがてテレビも入る。娯楽の範囲が急速に広がりをみせる。一方、医学の発達が失明から彼女たちを救う。そのすべてが瞽女の世界を外側から狭めた。そして3人の瞽女だけが取り残された。昭和三十九年(1964年)、東京オリンピックで日本中が湧いたその年を最後に旅に出ることを止めた。昭和四十六年(71年)一月、今度は筆者が彼女らを高田に訪ねる旅を開始した。そして、三冊の単行本(『私は瞽女』『ある瞽女宿の没落』『高田瞽女最後』音楽之友社)にまとめることができた。今から五十年前の話である。額に汗して働く、生きるために旅に出る。「旅の重さ」がここにある。

(了)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』(同)など。

(第102回・前)
(第103回・前)

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