高齢化社会日本における老人の幸せな成仏への道(前)
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ノンフィクション作家 大山 眞人
『岸辺のアルバム』『ふぞろいの林檎たち』など、多くのテレビドラマを手がけた脚本家の山田太一氏が亡くなった。享年89歳。死因は老衰。運営する「サロン幸福亭ぐるり」(以下、「ぐるり」)の常連客の大半が、「死ぬなら“ピンピンコロリ”がいい」という。2番目が“老衰”だ。両方に共通するのは、「死ぬときに苦しまない」というイメージがあるからだろうか。高齢者の幸せな死に方って、本当にあるんだろうか。
「死」は1つの意識であり意図でもある
難しいテーマである。死をテーマにした小説やノンフィクション、エッセイ、戯曲などは限りなくあるが、「幸せな死」という括りで論旨を展開した作品にお目にかかったことはない。「幸せ」の意味の範疇は人によってさまざまだと思うからだ。かつての「ひとつ屋根の下」、家父長制という単一の秩序のなかで生活を共にしてきた時代とは違い、今は核家族化が進み、家族との距離間も遠くなりつつある。生死感も大きく変化した。ところで、「幸せな死」というのは誰にとっての「幸せ」なのだろうか。本人?家族?
本人にとって苦しみをともなう最期は受け入れがたいことだと思う。医者に余命宣告を受け、痛みに耐えきれない末期の症状を呈する患者(末期の癌など)に、モルヒネなどの麻薬の投与(患者本人や、家族の希望など)によって痛みを軽減し、結果として死を早めるという方法もあると聞く。「ぐるり」の常連だったUさんの場合、家族が強くこれを希望。これ以上の蘇生を望まなかったから、という報告を受けたことがある。一見安楽死を連想させるが、日本では安楽死は認められていない。
NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(2019年6月2日放送)を見た。ある女性が全身の身体の機能が奪われる「多系統萎縮症」という回復の見込みのない難病と宣告され、家族と相談のうえ、「人生の終わりは、意思を伝えられるうちに、自らの意思で決めたい」と、スイスにある「ライフサークル」という自殺幇助(安楽死)団体に登録する。安楽死に対する家族の葛藤、生と死をめぐる対話、安楽死を迎えるまでの日々を追い続けたドキュメンタリーである。
回復の見込みのない絶望的な状況下で、妹本人が安楽死を選択したとしても、2人の姉は容易に受け入れられない。煩悶が続く。最終的に妹の意思を尊重してスイスでの現場に立ち会う。点滴に含まれた致死量の薬品を自身の意思で決め、投与する。ほんの数分で眠るように息絶えた。
佐伯啓思(経済学者)は、朝日新聞(19年7月6日)紙上「『死すべき者』の生き方」で、「私は、言葉は悪いが、何か崇高な感動を覚えた。この場合、崇高というのは、すばらしいとか気高いという意味とは少し違う。とても涙なしに見られる映像ではない。だが、ここには、葛藤のあげくに『死』という運命を受け入れ、しかもそれを安楽死において実行するという決断にたどりついた姉妹たちの無念が、ある静謐(せいひつ)な厳粛さとともに昇華されていくように感じられたからである」と述べている。
佐伯が「積極的な安楽死」を容認する理由として、「この先、死を待つだけの生が耐え難い苦痛に満ちたものでしかなければ、できるだけ早くその苦痛から逃れたいからである」「『死』とは1つの意識であり、意図でもある。人間は、死を意識し、死に方を経験することができる」。佐伯は安楽死を「尊厳死」と呼ぶことには抵抗を感じていたともいった。
佐伯のいう通り、近代社会では生きることが至上の価値とされ、「医療技術と生命科学の進歩とともに、あらゆる病気を克服して寿命を可能な限り延ばすことが人類の最大の目標となった。一方で、『死に方』に関しては議論の対象にもならない」。日本人の心のなかに、死への忌み畏(おそ)れがあり、それが議論を妨げているとも考えられる。
佐伯は安楽死を「消極的な安楽死」(終末期にある患者に対し、積極的な延命治療をしない)と、「積極的な安楽死」(自らの意思が明確。苦痛が耐えがたい。回復の見込みがない。代替治療がないなど、いくつかの条件のもとで、医療従事者が患者に対して積極的な死を与える)とに分ける。
「自死」をどう捉えればいいか
年間約2万人が自ら命を絶つという。私にはどうしても気になる自死がある。思想家西部邁の件だ。西部は前出の佐伯敬思の恩師でもある。私は西部とは若干だが面識があった。
直接話したのは、08年7月13日、「報道2001 シリーズ老人漂流 孤独死を生む限界団地」(フジテレビ)の生放送終了後。夫人を亡くされたばかりの西部が、「孤独死も悪くないね」と発した。「死ぬのは自由ですけど、孤独死は周囲に迷惑をかけますよ」と私がひとこと。「どんな迷惑をかけますか?」という問いに、「発見されるまでの時間にもよりますが、腐乱した死体にウジがわき、警察の検視にも清掃業者(特殊清掃業)にも迷惑をかけます」といった。すると、「そうですか。死んで迷惑をかけるというのもね…」と言い、黙した。その西部が18年1月、多摩川へ入水自殺と報じられる。が、西部信奉者2人の手による「自殺幇助」が判明したことで、「事件」へと様変わりする。
西部は自死についても、思想家らしい独自の考え方を示している。彼の遺稿となった『保守の遺言』(平凡社新書、18年)のなかで、「極端な例を挙げれば、オツムが痴呆状態に入ったままで、あるいは糞尿垂れ流しのままで死期に近づいている自分の姿について、『今此処』の心身が健全(といってよい)状態にあっても、何ほどかの予測・予想・想像をもってしまう。
要するに、過去の経験に基づいて形成される未来への展望が現在の自己の生に関する意味づけに、強かれ弱かれ、影響を与えてしまうのだ。極端な場合、そんな種類の死が間近に待っていると強く展望されるなら、今のうちに自裁してしまおうと決断し、そのための準備をし、そしてその決意を実行する、ということになって何の不思議もない。というより、そうした精神における決断性を具体的にまで固めたとき、自分の現在の生が晴れやかになって、自裁の瞬間まで明るい気分でおれるということになるのではないか」と述べている。
「あとがき」にも、「すべて終わった。ということは、自分の外部に存在しているのみならず内部にも多少とも食い込んでくる『状況』というものをほとんどすべて抹消するのに成功しえたということで、これでやっと『病院死を拒んで自裁死を探る』態勢が完了したということである」と。
当時、西部は手足が不自由で「自裁」すらままならず、結局「幇助自裁」でこの世を去った。「『病院死を拒んで自裁死を探る』態勢が完了した」と結論づけているが、西部の自裁は「幇助」なしでは成り立たなかった。信奉者2人を咎人(とがにん)にしてまで自裁しなくてはならなかったのは、西部の思想家としての矜持(自裁するかたち、格好)だったのだろうか。
(つづく)
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年、山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家に。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』(文藝春秋)、『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)、『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つ―田村亮子を育てた男』(自由現代社)、『団地が死んでいく』(平凡社新書)、『騙されたがる人たち』(講談社)、『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(共に平凡社新書)など。関連キーワード
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