2024年10月18日( 金 )

30周年を迎え、また超えて(18)中国の波動をつかむ(後)

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現代中国の栄枯盛衰

 直近の記事では主に1992年頃までの出来事を述べてきが、今回の記事では2024年現在まで飛んでいくということを了解していただきたい。この間の32年間、現代中国は勃興し、アメリカと世界の覇権争いをするまでに絶頂期を迎えた。しかし、習近平独裁政権の指導力不足によって衰退が始まった時期と評されるようになるのではないか。

 79年は一人っ子政策をスタートさせるとともに、世界経済の覇者になるための戦略を設定した記念すべき年であった。中国王朝の歴史を読み解いても、絶頂の時間軸はおおよそ50年である。現代中国の権勢は経済面に限定すると2010年から3年くらいがピークで、コロナ禍も相まって勢いを失い始めたと言える。

 「中国の波動をつかむ」という動機は、日本の軍国主義における侵略という事実と向き合い、贖罪のつもりからくるものだった。「微力ながら中国の栄華の一助になれば」というささやかな動機で、自己満足かもしれないが、サポートを尽くしてきたつもりである。

 1989年5月の上海ツアーにおいて「民主化デモ」を目撃した。6月になって北京・天安門広場において学生・市民への大虐殺が行われた。「国家統制は中国共産党主導で遂行する、経済運営は資本主義から謙虚に学び、盗んでいく」という「二面策」で驚異的な経済発展を遂げた。この過程で中国への関心は完全に喪失した。中国に関する項目は今回をもって終了とする。

2010年上海万博への招待を受ける

中華芸術宮(旧万博中国館) イメージ    2010年に開催された上海万博において上海市労働局から「10名の招待」を受けた。つまり「上海までの飛行機代は自己負担だが、滞在中のホテル代、食事代、万博への入場券の代金は上海市が面倒をみる」というもので、3泊4日の滞在という条件だった。なぜ招待を受けることになったのかというと、「技能実習生」を福岡に派遣することに貢献したと見られたからであろう。

 上海市労働局関連で技能実習生を送り出す機関があった。だが2000年ごろになると上海周辺において海外へ送り出す実習生を探すことが難しくなっており、山東省煙台市で面接して実習生を福岡に送りこんでいたのである。主な業種は建設業である。

 ピーク時、派遣されてきた実習生は130名を超えていた。当社が直接運営するのではなく、実習生に関する組合を立ち上げて運営していた。運営責任者は日本に帰化した中国出身の女性であった。非常に有能な人材で、実績を残した。同時に当社には上海市労働局の職員が2年駐在していた。当社がその組合を手放したのは、型枠業者へ派遣した実習生が東京へ逃げたことが発覚したためである。経緯はさておき、組合運営の実績が認められたのであろう。

中国ビジネスに傾注した面々

 中国の波動を自身のビジネスに利用し、ビジネスモデルを組み立てていった経営者たちの奮闘例3例を以下に記す。

 最初に魚の養殖場経営と餌まきプラントで挑戦した井尻社長(仮名)の例を紹介しよう!井尻氏は九州大学工学部機械工学科卒。大手機械開発会社に8年間勤務して30歳のときに独立した。中国に関心を持ち始めたのは1992年あたりからである。彼は、何度か紹介した89年の上海視察ツアーに参加した友人であった。

 92年当時の海南島は、まだ本格的な開発がスタートしていない。その海南島でタイ・ハマチの養殖場を経営するに至った。最大のポイントは餌を効率よく食べさせられるようにプラント機械を進化させることであった。この領域が井尻のもっとも得意とするところである。立て続けに新商品を世に送り出し、日本における給餌機のシェアはトップに迫った。表現を換えれば、海南島での養殖場経営はプラント開発の実験場であったとも言える。惜しまれるのは同氏が甲状腺がんにより、若くして他界したことである。

デフレ攻防戦

 インフレの時代が去ると(92年を境として)極端なデフレ時代へと移行した。冠婚葬祭事業を手がけるラック(福岡市博多区)の柴山社長(故人)は「今後の企業生き残りの決め手は、いかに安く仕入れるかである」と強調していたことを鮮明に覚えている。同氏は他社に先んじて広東省広州市で材料調達を始めた。筆者も2回、広州に同行したことがある。この着眼点は卓越しており、それゆえ、その後の躍進に寄与することとなる。

アダル繁栄の基礎は上海工場建設にあり

 業務用家具で業績を伸ばしていた「アダル」は90年を境に「安値受注の強要」により赤字体質企業へと転落した。創業者の武野氏は「上海で製造しないと企業の存続はない」と危機感をあらわにした。筆者はまず上海出身の中国人を紹介して行動を開始した。最初の工場は上海駅の東側にあった。合資(中国資本との共同経営)でスタートしたが、合理的な理屈が通用しなかったために撤退し、独資(単独経営)に切り替えた。この決断が功を奏して躍進のチャンスをつかんだ。

 2番目の工場は上海の西北部にある嘉定区に構えた。3年足らずで次に南西部の金山区に自前の工場を立ち上げた(当時は田畑が広がるエリアだったが、現在は商業・物流ゾーンになるまでに発展している)。さらに勢いは止まらず、浙江省にある工業団地に大工場を建設した(一部はテナントとして貸している)。武野氏は「上海に工場を移転する決断をしていなければ潰れていたであろう」と回顧する。

(つづく)

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