『脊振の自然に魅せられて(番外編)』「久しぶりの九重登山」(前)
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学生時代より慣れ親しんだ九重へ行きたくなった。学生時代とは60年近く前のことである。当時は国鉄 博多駅から久大線を利用し豊後中村駅で下車、バスで舗装もされていない九酔峡の続ら折れの狭い道路を通り、終点の長者原まで行くのが当たり前だった。長者原は九重への登山口として今も変わりはないが、当時はここにテントを張り山へ入る心構えをしたものである。
ワンダーフォゲル時代は春合宿、秋合宿、強化合宿で訪れた。大勢の部員用に一斗缶に穴を開けてコンロ代わりし、薪を炊き食事の準備をした。大鍋は薪の煙で真っ黒であった。制服の胸ポケットにはいつでも食事ができるようスプーンを差していた。部員の間でこのスプーンを武器と称していた。
やまなみハイウェイができたのが1964(昭和39)年、ちょうど東京オリンピックの年だった。それまでは、九重は山深い地であった。九重は社会人になっても何度も訪れた山である。コロナ禍で数年はスキー以外では九重での登山は疎遠になっていた。夏を過ぎるころ、無性に九重に行きたくなった。
「九重へ行こうよ!」とスキー仲間を誘った。紅葉には少し早いが日程を調整し、10月17日(火)に仲の良い3人で行くことにした。筆者の79歳を筆頭にJは76歳、 Sが74歳と元気なお爺ちゃん達、名付けて三爺である。それぞれの都合で日帰りとした。
早朝の午前5時30分に自宅を出て、筆者の近くに住む Jを乗せS宅へ向かう。Sが3人のなかで一番若いし、福岡市南区大橋のマンションに居を構えているので、少し九重に近いのもあ、り彼の車に乗り変え、高速道路の太宰府インターへ向かった。Sは冬に九重森林公園スキー場でスキーを楽しんでいるので、九重までは高速道路、一般道と走り慣れている。
走ること2時間余で長者原へ着いた。時間は午前8時30分であった。長者原は以前はキャンプ場であったが、今は整備された広い駐車場となっている。トイレを済まし、登山靴に履き替えタデ原湿原の木道へと向かう。眼前に今日の目的地、三俣山が聳えている。
三俣山を囲むように左右の登山道がある。雨ヶ池越と諏蛾守越(すがもりごえ)である。雨ヶ池越のほうが、わずかに僅かに標高が低い。共に人気のキャンプサイト「坊ガツル」へと続いている。今日の目的地、三俣山は駐車場の長者原から近く手軽に登れる人気の山である。
長者原のビジターセンター横を通り抜け、タデ原湿原の木道へ入る。三俣山を見ながら、まずは「すがもり避難小屋」へと脚をすすめる。一面のススキが朝日に照らされ銀色に輝いていた。木道を歩く3人の足音がコトコトと響いていた。
タデ原湿原は坊ガツルとともにラムサール条約登録湿原地でもある。一帯の湿原にはいろいろな花が季節ごとに咲く。木道を10分ほど歩くと森林地帯に入った。鬱蒼とした木々から朝の木漏れ日が足元を照らしていた。
三俣山一帯は 60年前とすっかり様子が違ってきた。濁流による土石流が登山道や工事用の林道も塞ぎ、砂防ダム工事が数えきれないほど施され、今も土石流除去の工事中である。三俣山の裾野の登山道も砂防ダムとなり、しばらく工事用の林道を歩くようになっている。
三俣山を仰ぎ見ると右手に噴煙を上げる硫黄山が見える。硫黄山は江戸時代から硫黄の採掘場として潤っていたと標記にある。
しばらく歩くと林道から登山道の分岐に届いた。林道から岩だらけの登山道分岐へ届く。登山道を歩くと途中からガレ場となり、ガレ場を抜けると再び林道歩きとなった。石積みのケルン前で小休止し、 Sが饅頭を、筆者が早朝にドリップしたコーヒーを振る舞った。
(つづく)
脊振の自然を愛する会
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