30周年を迎え、また超えて(5)「情報屋の幻想」を活かす
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調査33件、営業300万円
1975年の2月に入社して4年が経ったところで、調査課長、調査副部長と肩書が上がっていった。肩書が上がっても、こなす業務はうなぎ登りで、業務件数を過重にこなすことができるかが問われるようになる。1カ月で調査33件を仕上げるには、土日も業務に追われる。情報記事も書かなければならない。80年には月額300万円の売上をあげていた。月収に換算すると固定給はさほど変わらず14万円、コミッションが月平均40万円で、月収54万円になっていたのだ。
収入増のおかげで76年の年末、27歳の時に建売住宅を購入することができた。当時の前原町(現・糸島市)高田である。土地50坪、建坪30坪で、値切って1,400万円で成約した。それまでの居住地は太宰府町(現・太宰府市)南。西鉄二日市駅まで徒歩15分であるから天神までの所要時間は、左程かからなかった。だが、前原町高田は交通の便が悪い。愚妻・悦子さんからは「こんな田舎にきてしまった」と叱られたものである。このころの金融機関は住宅ローンにまわす資金に余裕がなく、損保保険ローンを組んだ。ローン金額は1,200万円で金利11%前後であったと思う。
家を若くして買ったという自慢話をするのが、ここでの目的ではない。会社の立ち上げ資金づくりの教訓を述べているに過ぎないのだ。「こんな高い金利ローンは即刻完済しよう」と誓い、94年までに完済した。起業の際、賃貸に出していた物件を借主に転売した。1,700万円で売却できたので、調達した我が夫婦の資本金5,000万円中、34%を補てんしたことになる。5,000万円預金するのも至難の業である。
お声が、呼び出しが増える
調査レポートを書き上げるほど、仕入れ先を回るほど、情報発信をするほどに関係者たちからお声がかかる、呼び出しが増えるようになってきた。「昼食はどうかね?」「夜は空いていないかね?」という打診である。「要は情報交換しようや!」という誘いである。79年を境にして、こうした打診が増えてきた。九州一の建材商社専務とも昵懇(じっこん)になれた。
最初はたしかに「情報交換」であったが、3回目からは本音が丸出しになる。「実はコダマさん!あの内装屋は必ず当社で支援すると約束する。潰すことはないから目こぼしをお願いしたい」と嘆願の姿勢に変わる。こちらとしては「はい、承知しました」と返事するしかない。この時から、二次会の誘いは極力、断ってきた。また、誘いに乗るときは必ず割り勘にすると心がけてきた。
情報マンの分岐点
ここではあえて「情報屋」から表現を改め、「情報マン」に置き換えた。今回の記事のタイトル「情報屋の幻想を活かす」の通りである。要するに「情報屋として己の力はたかが知れている。相手が勝手に思い込んでくれているのだ」と謙虚に向き合うのが「真の情報マン」なのである。「己の情報に恐れてひれ伏してきている。だから高飛車でいくぞ」と慢心になるのが「破れ情報屋」で、いつの日か必ず墓穴を掘ることになる。
バンカー、浜崎裕治との出会い
79年の金融情勢は、一転して資金軟弱となった。当時の外商というか、外回りのバンカーの大半は「割引枠設定の営業だけ」に奔走していた。筆者のような仕事をしていると、さまざまなバンカーと接触する機会がある。数多くのバンカーと付き合ってきたが、最高のバンカーとの邂逅を果たす。その人物の名は、浜崎裕治氏である。浜崎氏が山口銀行博多支店に赴任してきたのは76年秋のことだった。
浜崎氏とは78年の年末、吉塚にあったメッキ工場で出会った。この工場に割引設定のセールスにきていたのである。1時間、世間話をしたが、非常に波長が合った。浜崎氏には20社の得意先を開拓する為に汗をかいた。
浜崎氏のバンカーとしての最後の活躍は、山口銀行の正常化に専念したことである。下関市出身、正義感溢れる人物で、晩年は当社顧問として活躍してくれた(23年4月に永眠)。
(つづく)
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