30周年を迎え、また超えて(17)中国の波動をつかむ(前)
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贖罪
1999年5月、上海豪華客船ツアーで上海に行く決意をしたのは「21世紀は中国発展の時代」という時代認識をしていたからである。具体的には、その先導役の都市・上海を目の当たりにしたかったという動機もあった。さらに歴史への贖罪にこだわった。日本の軍国主義時代の中国に対する侵略行為には率直に謝罪をするべきであった。「発展する中国への貢献をわずかながらでもしなくてはならない」という使命感を有していた。いわば親中派として罪滅ぼしの気持ちを抱き続けてきた。2015年くらいまでは中国の歴史にも関心をもっていたが、既に「虚無化」してしまった。
最近のビジネスに関する話である。西安から約500km西にある蘭州という歴史ある都市で「投資セミナー」が企画された。長年、親中派であった友人・京田(仮称)の捨て台詞が凄い。
「あんな田舎に投資する日本人の経営者がいるものか。中国側は日本を舐めている。習独裁政権になってからというもの、俺の周囲からは、昔ながらの中国ファンは絶滅してしまった。だから様々なイベントを行っても集まらない」。
見栄っ張りの買い物の結果
上海市を流れる黄浦江本流の東側を浦東という。この浦東開発について語っていこう。1989年5月、上海の実情は、日本と比較すると55年当時と同じではなかっただろうか。大通りにおける交通機関の主力は自転車であった。都心部にバス、タクシーは走っているが、マイカーは珍しかった。その後の上海歴訪で知人宅に行ったことがあるが、電話が設置されていなかった。それからあっという間に携帯電話が普及していったのである。
90年から年に1回、上海ツアーを4回開催した。このツアーで真剣に視察をした健康食品の経営者がいた。江蘇省のある都市で「香酢」を見つけたことで業績発展へとつなげた。当時、スーパーや免税店は目立たなかったが、免税店を兼ねた友誼商店という店があった。ここで男女のライバル経営者が競い合って「買い物競争」に興じた。競争の結果はというと、カードの利用可能枠が多かった女性社長が勝った。しかし、この2人の会社もバブル崩壊で倒産してしまった。
浦東開発
田中角栄首相が中国を訪問し、日中国交正常化を果たしたのが1972年のことである。そこから日本側からの資金援助と技術提供で当時の上海の中心部から30㎞のところに宝山鋼鉄の製鉄所が建設された。基幹産業の立ち上げをしながら、78年以降、全国の経済発展に向けた法的整備がなされた。「経済大躍進」のスタートはこの年からである。一例を挙げると深圳(当時は小さな漁村)が経済特区という開発の重点地域に指定された。
また、中国共産党は「中国一の商業都市・上海」を中心に据えるプロジェクトを立ち上げた。その開発が「浦東開発」と呼ばれていたのである。上海は揚子江を境にして上海西=浦西地区(従来の中心部)と、田畑である浦東地区に分かれていた。この浦東地区の開発の目的はニューヨークをしのぐ金融都市、世界一のオフィス街、商業街を誕生させることであった。
90年6月に行われた1回目の上海視察で、この20世紀最後の大プロジェクトを知ったのである。視察の企画は、上海を中心にコンサルをしている友人・比恵氏(仮称)と共同で行った。平均12~15名のツアーであった。その際に知り合ったのが浦東開発公司書記・黄氏だ。当時、まだ40代半ば。「上海浦東計画は、単なる上海市の枠だけにとどまるものではありません。中国政府のメンツにかけて世界最先端の商業・金融ゾーンを建設するのですよ」と、しゃべりだしたら止まらず、延々と40分続いた。「すごいプロジェクトをやるものだ」と、こちらは驚いた。
福岡でのセミナーを提案
筆者はかねてより「九経エコノス発刊にあたってのイベント企画に相応しいものはないか」と模索していた。そこで「ピーン」とひらめいた。「黄主任。秋に来福してください。浦東セミナーを福岡で行います。来てくれないとおさまりません」と伝えた。黄氏は最初、意味不明だったのか、キョトンとしていた。同行の通訳がもう一度、丁寧に伝えてくれたところ、理解したのか突然、にこやかな表情になり、握手を求めてきた。
比恵氏が狼狽した。「そんなことを約束して良いのか?大丈夫か?」と尋ねてきた。「大丈夫。あなたの方は福岡へ招聘する段取りをしてくれればそれで結構だ。人集めは俺に任してくれればOK」と回答した。それから3カ月後の9月、ホテルニューオータニ博多にて「浦東開発」に関する説明を黄氏が通訳を交えながら1時間半行った。参加者は延べ700人弱であったが、「これだけ関心をもたれるとは思ってもいなかった」というのが本音でもある。
今でも「九経エコノス発刊イベント」としては最高の企画であったと、自画自賛できる。何よりも福岡で先陣を切ったセミナーであったことは自慢できると思う。上海では上海浦東国際空港、リニアモーターカー、地下鉄が短期間のうちに建設された。浦東開発も順調に進んだ。視察には社員旅行も含めて3回行った。一番、脅威を感じたのは屋上から覗いたグランドハイアットであった。
浦東が最も話題を提供できていたのは世界万博の開催された2010年頃であろうか。その後、注目すべき情報は流れてこない。「世界と競い合う金融都市」というキャッチフレーズはお題目で終わったようである。浦東開発を巡っては、「波動をつかんで情報発信する先導役を務めた」と自負できる。
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