2024年10月28日( 月 )

30周年を迎え、また超えて(19)閑話休題(前)団塊の世代とは

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 1947年生まれの筆者は自力で育ち、成長していったのではない。『団塊の世代』のトップバッターとして快走してきた。47年から49年生まれまでが『団塊の世代』と呼ばれてきた。この3年間で806万人が生まれたといわれる。「競争過多のなかで大変な戦いを経験したであろう」と同情されたことも多々あった。ここでは即答しないが、意外に競争は激しくなかった。原因は2つある。(1)己の能力を悟って、身の丈に合った人生の選択をしていた、(2)日本社会・経済の発展のおかげで活躍するフィールドが拡大していった。

 結果、年金制度が破綻する前に大半の方々は、貯金と支給される年金で余裕をもった終活ができるようだ。

美々津中学校昭和37年度卒業生同窓会へ

美々津 イメージ    還暦祝いのときに中学校の同窓会に参加して以来、17年ぶりに同窓会に出席した。決して、同窓会を蔑ろにしていたわけではない。美々津中学から高鍋高校に進学した23名(男女)は、1年半に1回、定期的に同窓会を行ってきた。最近では男子の参加が圧倒的に多い。17年ぶりの再会となる中学校の同窓会では「誰が誰か」分からなくなっている。女性の方々が分からないのは仕方がないとして、男子の同窓生も出席者の半数の名前を思い出すのに時間を要した。ちなみに参加者は34名であった。

 同級生たちは誕生日がくれば77歳になる。現在10月だから単純にカウントしたとすると65%が77歳に達している。そのなかで鬼籍に入った人たちが38名で、うち女性が14名となっていた。ただし住所・素性不明が20名いる。このなかで「5名は亡くなっているかもしれない」と同窓会の幹事が漏らしていた。となると43名の仲間たちが天に召されたことになる。脳裏に焼き付けられた幼なじみの顔が浮かんでくると涙があふれてきた。63(昭和38)年3月の卒業以来、一度も再会することなく、別れに至った同級生もいるのである。これからも辛い別れが続くだろう。

三味線を極めることに没頭

 まず参加者全体で中学校の校歌を歌った。

 1番 黎明の日向灘に 見よ くれないの 朝日がのぼる 胸にあふるる 若き力 永遠に涸れず 美々津 美々津 われらが母校(別の意味ではわれらがふるさと美々津)

 2番 夕映の尾鈴山に 見よ 明星の 光はあかし はるかに仰ぐ 遠き望 永遠に招く 美々津 美々津 われらが母校

 3番 立縫の古き里に 見よ たくましき 命は育つ 行くてを照らす 御光の燈 永遠に消えず 美々津 美々津 われらが母校

 この校歌の音頭を取ったのが三味線弾きのSであった。彼は高鍋で畜産業を営み、事業に成功しているようだ。三味線を極めて半世紀とか。ジャンルは非常に幅広い。いろいろな賞を受賞しているらしい。そして指揮者はK女史、彼女とは高校・大学と進路が同じであった。K女史は宮崎の高校の音楽科教員となって定年まで勤めあげた。校歌斉唱は本当にアイデアあふれる仕込みであった。

美々津は江戸時代に繁栄

 美々津とは、漢字を訳すれば「美しい、美しいみなと」ということになっている。港といっても耳川の河口を活かしたものである。昔々は木材集荷港であった。歴史的にみると薩摩・島津が九州征伐の為に北上してきた際、迎え撃つ大友側が耳川対岸に陣地を敷いて決戦となった。結末は大友陣営が壊滅して豊前へと逃げ帰ることとなる。耳川の水は戦死者たちの血で真っ赤に染まったと記録されている。大友側が秀吉に泣きついたことで九州征伐(島津征伐)が動き出すのである。

 美々津が最も繁栄したのは江戸時代のことであった。美々津は現在では日向市美々津町となっているが、もともとは児湯郡美々津町であった。高鍋藩(秋月藩)の中核港として繁栄していた。江戸時代の参勤交代で高鍋藩藩主は、この美々津から船出していた。難波までは船便で、そして上陸して江戸までは陸路となった。その他では延岡藩、飫肥藩藩主たちの江戸参りも、この美々津港から出港していた。記録によると季節風の影響次第では、島津の参勤もこの美々津からスタートしていたという。

裕福な海運業者達

 「人が動く、モノが動く、情報が飛び交う」の三要素が地域発展の条件である。江戸時代も現代でも発展、繁盛の要因はまったく変わらないはずだ。先だって能登半島・富山県湾岸を視察してきた。このレポートは既に掲載済みであるが、能登半島が最も繁栄していたのは江戸時代であったと断言できる。能登半島には北前船往来の港が数多くあった。前記した「人・モノ・情報」が活発に飛び交っていた光景が走馬灯のように浮かんできた。「江戸時代は本当に繁盛していた」と確信したのである。

 美々津もまさしく平穏・太平の時代が長期化したおかげで江戸時代を通じて海運業者たちは膨大な蓄財をした。明治維新が実現して、県の制度が二転三転して翻弄された。2年間、美々津県という時期もあった。そして結果的には宮崎県となり、宮崎市が県庁所在地となった。当時の宮崎市は天領として田畑しかない地域であった。そこで、県庁所在地として相応しいまちづくりのために資金を民間から調達した。その調達先の“ベストテン”に美々津の海運業者たち5人が名を連ねていたらしい。

神武天皇のお船出の港

 美々津港は江戸時代よりはるか以前、2600年超の歴史がある。神武天皇が全国制覇の為にお船出した由緒ある港であることを知っている方々は少ない。このレポートは別の項に譲ることとする。

(つづく)

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