2024年10月28日( 月 )

30周年を迎え、また超えて(20)団塊の世代とは(後)

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故郷への想いがないのは不幸な人生なり

 我が故郷を想い懐かしむことが皆無の人間は、幸せにめぐり合うことはなく、不幸な運命をたどって人生を終える。連れ合い(悦子)と宮崎県に年2回、墓参りのため車で帰郷していた。九州縦貫自動車道の人吉を越えて、えびのに入ると宮崎県となる。「宮崎県エリアに入ると直さんの顔が和むね。すごい思い入れをもっているのね。私なんて故郷・鹿児島を懐かしむ感慨の念はゼロだわ!」と冷淡な発言をしていた。

    同窓会に参加した34名の同級生たちは、我が故郷を懐かしみ、中学時代を回顧していた。彼らは、全員満足できる人生を送ってきたのである。

 筆者の場合、高校3年までの18年間、故郷・美々津で過ごした。美々津を離れて60年近く、福岡市民になってからは54年と、故郷で過ごした18年間の3倍の時間を福岡の地で過ごしてきた。だが、今でも3倍の時間を過ごした福岡とは比較にならないほど故郷への愛着が深い。我が人生の原点は、故郷で形成されたからである。

学歴分類と執着人生の実体

    (19)で「団塊の世代の特性」として「己の能力を悟って身の丈に合った人生選択していた」と指摘した。当時は中学校を卒業して社会人になる割合が全体の4分の1であった。昭和35(1960)年までは、集団就職で都市部に向かう就職者が乗る列車を見送るというイベントがあった(関西・名古屋へ向かう就職者たちの送別)。それで筆者たちのときは、この送別式が途絶えて2年目であった。15歳で故郷を飛び出した同級生の6割は20代から30代で故郷(広い意味での宮崎県)に戻り、地元に定着した。

 小学5、6年で同じクラスだった道子さんも参加していた。当時は、よくからかっており、負い目があったため、素直に陳謝した。彼女は宮崎交通の定期バス車掌として就職したのであるが、腰を痛めて21歳で退社したそうだ。幼なじみ(女性)の兄(2つ年上)と22歳で結婚したとのことで、それから現在まで美々津で暮らしてきた。

 残り4分の3の同級生はどうなったのか?専門科の高校(工業科・農業科)に進学した者がそのうちの4分の1であった。このコースで地元に残った者は、日本電信電話公社(現・NTTグループ)へ就職したことで比較的恵まれた生活を送っていたようである。前回登場した三味線引きのS君は、農業科を選択して農園経営で成功したようだ。工業系で都市部に就職した同級生たちは、大阪や東京近辺に定着しているようだ。商業科を卒業した者は、広い意味での宮崎県に定住したようである(金融関係が多い)。

 残りは普通科(家庭科含む)コースである。たとえば高鍋高校に進学した23名の進路を整理してみると4年生大学に入学した者が8人、専門コースが3人、残りは就職であった(女性の大半は就職)と思う。美々津中学校からの進学先のコースとして、もう一校と富島高校(現在の日向高校。75年に富島高校から分離)がある。こちらも4年生大学に進学した者は8人程度、私立高校から2名が4年生大学に行ったので、総勢18名となる。180名の同級生のうち、1割が4年生大学に進学したことになる。大雑把に整理すると中卒で就職を選択した者が4分の1、工業などの専門高校から就職を選択した者が4分の1、普通科高校から就職した者が4分の1、4年制大学に進学した者が1割(18名)、残り15%が専門コース(普通高校卒)の道を選んだと分類できる。63(昭和38)年に中学校卒業、66(昭和41)年に高校卒業という当時の「日本の経済力、宮崎という田舎」という条件では、こういう進学・就職の道を選択することになったのである。

対照的な就職実例

 まず就職・転籍の問題である。高校まで一緒だったUとKは私立の工業大学に進学し、大企業に就職した。就職3年目には南米へ派遣された。31歳になるまで滞在していたが、帰国後、退社。日向の技術会社に縁があって再就職して定年まで勤めあげた。Uは水処理関連資格の1級を取得し、業界トップ企業に入社できた。その後、大手食品会社が宮崎に大型工場を建設したため、その機会をつかんで水処理専門家として再就職して、故郷で人生を終えようとしている。この2人の例は「団塊の世代」の行動パターンを体現している。「大企業に一生しがみつくことを否定したケースのはしりである。

 国立大学の工学部を卒業したのが、一番の友人であったKaであった。70(昭和45)年の卒業生は「売り手市場」であった。この友人はボウリング場のシステムをつくる会社に就職した。内定を受けたと聞いて、「そんなベンチャー企業でなくても、まともな会社があるだろう」と迫ったが、Kaは気にせずに名古屋へ行った(就職先)。Kaの先見性には頭が下がる。この会社は今や物流装置のトップ企業へと飛躍した。 

 Kaは最終的に子会社の社長にまで上り詰めた。酒の席で、話を聞くと、結構な株を割り当ててもらっていたようである。Kaは肺がんとなり、闘病生活5年を経て永眠した。このときの別れが一番、切なかった。驚愕する出来事に遭遇した。美々津の神社が水害に遭った際、修復資金としてKaは2,000万円寄付した。妻は高校の同級生で、彼女とは同じ新聞部のメンバーであったため、遠慮なく尋ねた。「会社の株を所有していたので、簡単に現金にできるのよ。あの人の指示で供出したの」と淡々と語る。Kaが1社に一心不乱、全力投球して得た結果なのである。

意外と地元に定着

 180名の同級生の住所録を眺めてみた。意外と地元の日向市・宮崎市で晩年を過ごしている者が65%いる。最後は故郷へ戻ってきたのである。福岡市には筆者を含めて2名しかいない。あとは大阪および東京周辺に居住している。「故郷から決別する」ことが主流の行動パターンなのであるが、意外とこの「団塊の世代」は保守的なのである。また家族・夫婦関係においては、離婚率は知る限り7%程度のようだ。家族を大切にする生活スタイルを貫き通してきたことがわかる。加えること34名の参加者のなかで、現役なのは、東京で事業をやっている友人と筆者のみであった。

地域崩壊寸前

 懸念されるのは人口問題である。30年前の日向市美々津町の人口は4,200人。近年では2,189人(住民基本台帳、18年3月1日時点)と半減している。決して山の中ではない。海岸に面した交通の要衝にあたる地域である。農業地帯は後継者も残っているから、家族が構成されている。ところが町には若者の姿をまったく見かけず、老人だけが生活している。住宅も築50年を超えているものばかりで、スラム化一歩手前のものばかりである。まさに「集落壊滅」一歩手前という状態といえる。驚くべきは不動産取引が不可能なことだ。空地はごまんとあるのだが、坪1万円でも取引が成立しないのである。

 2600年の歴史を有する美々津は、この地上から消えようとしている。さぁ、次回から「事業起こし」シリーズへと筆を進めよう!

(つづく)

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