2024年10月28日( 月 )

30周年を迎え、また超えて(21)事業起こしのきっかけ(1)マスコミとネットワークづくり

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RKBニュース番組にコメンテーターで登場

イメージ    1987(昭和62)年あたりから「九州倒産情報発表」記者会見担当になった。毎月、商工会議所記者クラブにおいて、帝国データバンク、東京商工リサーチ、東京経済の3社で、マスコミ向けに「倒産発表」を行い、その担当として他媒体記者とのつきあいが始まった。

 5年担当して直属の若手部下に担当を振りかえた。ここで最も刺激を受けたのは、東京商工リサーチの草刈克二氏だった。話し方こそうまくはなかったが、整理能力・文章構成能力が天下一品であった。この能力には素直に感服し、兜を脱いだ。

 90(平成2)年であったか、草刈氏は東京本社からの抜擢を受けた。そして最終的には本社情報部長として中央のマスコミの人たちと厚い人脈を形成したようである。彼のルポ記事は業界随一であった。2000年前後に定年退職して福岡に戻ってきた。即座に原稿依頼のため草刈氏の自宅へ押しかけると、こちらの要請を快諾してくれた。毎週1本、力作を投稿してくれている。同氏は現在、癌の闘病生活中である。「コダマさん!死ぬまで原稿を書き続けるから仕事をまわしてくれ」と覚悟を語る。

 そういう流れの中で、RKB(毎日放送)の記者と遭遇した。あるきっかけで「夕方のニュース番組で、倒産及び経済事件に関するニュースを解説してくれないか」と打診された。この番組はRKBの看板番組で、キャスターが三善英毅氏でアシスタントが納富昌子女史であった。月3~4回のペースで、経済ニュースというよりも経済事件簿の裏側の解説を担当した。出演料は間違いなく「タダ」であったと思う。この貴重な経験は会社を起こした際に役立った。マスコミの戦略的な活用ということである。KBCラジオとのタイアップは名を広めるのに有効であった(別シリーズで触れる)。

 納富女史を「アシスタント」と呼ぶのは失礼かもしれない。ただし彼女との情報交換の過程で自慢すべきことが一点ある。90年夏、「岩田屋は間違いなく潰れる」と断言した。からは会うたびに「岩田屋はまだ潰れていないじゃありませんか」と叱責を受け続けた。そして遂に倒産する日がやってきた。「あらやっぱり岩田屋さんは行き詰まりましたね。さすがね」と淡々と賞賛を浴びた。平成バブル時代に実需の百貨店・スーパー等々の博多老舗企業が消えていった。岩田屋、玉屋、ユニード、とそうそうたるメンツの企業である。これらは一例に過ぎない。数多くの「博多老舗」が店を畳んでしまった。       

色々な新聞記者たちとのめぐり逢い

 (10)(30周年を迎え、また超えて(10)情報クレーム対応)で「香港上海銀行福岡支店疑獄事件」について触れている。88(昭和63)年のことだ。この時、「佐賀氏を知っているか?」と問い合わせをしてきたのが朝日新聞の記者であった。彼はその後、名記者として名を馳せたというよりも、朝日新聞という官僚的な組織のなかを上手に渡り歩き、社長室長に抜擢された。この頃からマスコミとの付き合いが本格化してきた。最初は朝日新聞関連の記者が多かったが、そのうち毎日、読売の記者たちも出入りするようになった。ちなみに西日本新聞社とはあまり縁がなかったと記憶している。

 記者たちの知り合いが増えるにつれて、記者によって能力差がかなりあることが分かってきた。3回、情報を提供すれば大方、その記者の能力がわかる。こちらは情報のギブアンドテイクを求めているので、能力不足の記者は「仕方がない!」と適当にあしらうことにした。しかし、驚くほど有能な記者もいる。情報提供を受けた「名記者」たちは、しっかりと綿密な取材をして報告してくる。そして、翌日には記者のスクープ記事が掲載されている。これまでに知り合った記者の中でも「名記者」と評価する猛者を以下で紹介していく。

読売「スクープヒットマン」時枝記者

 90年頃であっただろうか。読売新聞の記者・時枝正信氏が「長崎支局から転勤してきた」と、あいさつにやってきた。上司は美々津氏(仮名)であった。彼は筆者の兄と同級生、妹とは筆者の幼なじみで、幼稚園から高校まで一緒だった。美々津氏は元々、宮崎日日新聞社に所属していたのであるが、読売新聞の九州進出がきっかけとなってスカウトされた。最初からそうした縁があって話が弾んだのである。

 時枝記者には数多くの情報を提供し、彼はことごとくそれを記事化してきた。彼の取材の特徴は提供した情報の深堀・関連付けが非常に巧みだったことで、情報の枝葉を組み立てながら核心に迫っていく。友人だから称賛するのではないが、現役時代は「西部本社管轄ではスクープナンバーワン」という評価を受けていた。これについては後輩たちが異口同音で認めている。

 時枝氏の素晴らしさは「お返し」をしてくることだ。与えた情報取材の過程で「こちらに関係する情報を返してくる」義理堅さである。こういう逸材は組織を離れても自力で仕事ができる。一時は大学の非常勤講師もやっていた。今でも仕事の依頼が多く、多忙のようである。

ヤクザの懐に飛び込む緒方記者

 92(平成4)年頃か、「朝日新聞対馬支所から転勤してきた」と、あいさつに来たのが、緒方健二記者である。最初は毎日新聞社に就職したのだが、朝日へ転職したという。こういうケースは数多くあるが、朝日新聞から毎日新聞へ鞍替えしたケースは聞いたことがない。彼も提供した情報をことごとく記事にしていく有能な記者であった。ただ彼が最も関心があるのは、暴力団に関する情報だったので、こちらも興味を持った。

 その後、緒方記者は東京本社へ転勤する。警視庁キャップのポストに2回ついたというのは異例とのこと。そして最終的には朝日新聞社のセミナー講師になったこともあった。セミナーの内容は当然、「ヤクザに関する」ものであった。彼は人生最後の驚くべき選択をした。保育士を目指し、短期大学の保育学科に入学したのである。人生最後の目標は、暴力団組員の家庭に生まれた子供たちを支援するホームを運営することである。目標を達成して素晴らしい形で人生を締めくくることだろう。

経済記者として名を馳せた大鹿靖章記者

 バブル崩壊後に福岡へ転勤してきたのが、大鹿靖章記者である。彼は典型的な関東人で、バブルにまつわる刑事事件記事に携わり、ヒットを連発した。その後、東京に戻り、経済部で辣腕を振るった。「ソフトバンク解説記事」はなかなかの力作である。社内での人物評は芳しくなかったものの、会社を立ち上げた後も、この「記者ネットワーク」は大いに役立った。

(つづく)

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