2024年12月22日( 日 )

30周年を迎え、また超えて(23)事業起こしのきっかけ(3)社内ライバルらの事業立ち上げ

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

吉田宗治氏の独立

 1992(平成4)年まで、バブル倒産に追われて多忙な日々を送っていたが、45歳を迎えて「人生の将来像を描くこと」について考えるようになっていた。75年の入社時、社内でトップクラスの成績をキープしていた吉田宗治氏という尊敬する人物がいた。筆者と同年配であったが、入社は5年ぐらい早い先輩であったと思う。彼の採用地は長崎で、次に熊本に転勤していった。熊本では得意先をしっかりと固めていた。

 吉田氏を頼っていた上司が広島へ転勤となり、その際に引っぱって行ったのだが、そこでも短期間で業績を上げる程の逸材であった。次に大阪への転勤話が持ち上がってきたのだが、彼は「事業起こし」 を決断して、ホームグラウンドを熊本に置いた。熊本では「企業情報ネットワーク」という社名で地元企業に深く根を下ろした。

 とにかく、お客さんからの問い合わせには丁寧かつ、徹底的に親身となって回答することを徹底していた。同氏は本当にホスピタリティー精神に満ちた人柄だったからこそ、地元の中小企業から絶大な信用を得ていったのだ。そして最終的には鹿児島にも営業所を開設することにした。

 92年当時は、それなりの業績を上げていたようである。定期的に情報交換することもあり、「なるほどねぇ、やり方次第ではビジネスが成立するのだな」と大いに学んだものである。吉田社長の経営手法は徹底した顧客サービスであり、それが強みになっている。筆者自身、顧客への接し方を改善するように努めていった。

 熊本本社には10名以上の社員たちが在籍していたと記憶している。同氏との交流によって、頭の片隅で「事業独立か」と無意識に考えるようになったのかもしれない。しかし、吉田社長に本格的にお世話になるのは(株)データ・マックスの設立・立ち上げを行った時である。何せ経営者としての大先輩であり、実績を積み上げていた方であったから頼りがいがあった。

 余談ではあるが、吉田社長のご子息(長男)を当社で2年程預かったことがある。現在では2代目社長として辣腕を振るっている。どうであれ、会社の先輩が、事業家として成功のお手本を見せつけてくれるのは心強かった。

池田俊一氏の辞表提出の衝撃

イメージ    筆者にとってショックだったのは、池田俊一氏が92年3月末に辞表を提出したことである。世間では「東経は池田と児玉でもっている」と囁かれていた。確かに営業・業務面において、双璧の仕事量をこなしていた。福岡支社(途中から九州支社)が全社の利益の半分を稼ぎ出していた時期である。

 池田氏は勤続年数で4年先輩、年齢も4つ年上であった。自分で言うのは多少はばかれるが、2人が対照的な性格・仕事手法だったことは明白である。入社2年後、「池田氏は池田氏、俺は俺のスタイルを確立しないといけないな」という結論に到達していたのである。だから彼の部下になったという意識はない。

 ただ入社5年間は池田氏の「地ゴロ」としての強さに嫉妬していた。こちらは宮崎県日向市出身で縁も所縁もないところで勝負をしなくてはいけない。池田氏は福岡市育ち(福岡市生まれではなかったかもしれない)、筑紫丘高校卒、福岡大学卒とまさしく強力な「地ゴロコース」を歩んできたから、地元の人脈は厚かった。そして夫人のキャリアが下支えしてくれた。お嬢様学校にいたため、学友の大半の嫁ぎ先が医者であった。当初、「池田さんはどうしてこんなに医者人脈があるのか」と不思議でならなかった。あとでわかったのは「夫人のおかげ」ということだった。

 この人脈の厚みの差は、入社5年後には埋めてしまった。情報業務量を人の5倍と積み上げていけば、自ずと人脈が厚くなっていく。もちろん、池田氏の人脈とはまったく交錯しない新天地も開拓していった。いずれにせよ突然の辞表提出には驚き、衝撃も受けた。

池田氏の退社から学ぶ

 「池田氏が退社したから俺の天下がきた」とは一度も考えなかった。「俺も近未来、辞める道を選択しないといけないな」と自覚・覚悟した。そして、「突然、追い込まれたように退社して、事業の準備が皆無というようなことにはならないぞ!」と学びを得た。この時点から「潰さない事業起こしとは何か」を徹底的に考え始めた。「潰れないために大きな資本を集める」ことが肝要という結論に至ったのだ。筆者自身の振り返りとして「人様の経営を論評した者が、自身の会社を潰すようでは物笑いの種である」という結論に達したのである。

(つづく)

(22)
(24)

関連キーワード

関連記事