2024年12月22日( 日 )

30周年を迎え、また超えて(27)ついに立つ(4)

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組織の骨格づくり

 まず、どのような規模でスタートするかについて構想を練った。本社(福岡)の組織は、総務・管理部隊が中尾氏をトップとする4名(調査入力担当2名を含む)、編集スタッフが3名、編集長は東経からの仲間が合流、情報部がヘッド1名を含めた3名、調査部がヘッド1名を含めた3名、北九州が2名。筆者を含めると16名で構成される。そのうち、14名が東経のメンバーであった。

 既述したと思うが、東京経済に残った古参たちは「コダマについていった連中は肩書が欲しかった」と批判した(東経流にいえば部長格が4名)。この批判は、一面では真理をついていたかもしれないが、「反論する必要はなし」として、応対しなかった。

 これとは別に東経宮崎営業所の所長は、福岡の動きと連動して部下を引き連れ、2名で独立してデータ・マックス宮崎を立ち上げた。さらに東経沖縄営業所では、所長が全社員(総勢7名)とともにデータ・マックス沖縄を設立した。今から振りかえれば、事業を起こすのに東経OB22名を集めたというのは、東経の為にリストラ役を引き受けてしまったということでもあり、反省もしている。また、2年後に鹿児島でも支店長が我々の動きに連動するかたちで独立を決断したのである。ただし、同氏は癌が進行して残念ながら2年程で故人となった。

我が梁山泊

 福岡市東区に隆工務店という会社がある。オーナーの篠田会長は九重出身であった(なお、同地域の北側を久住、南側を九重と呼ぶ)。会長は自身の故郷を活性化させるために自社でホテルを建てて経営に乗り出した。国立公園内であるために許可をもらうためにかなりの時間を要した。経営の主体は直営であった。なお、同社の現社長の田原氏は、週末になると料理長補佐を買って出ていた。

 筆者は1990(平成2)年から、このホテルに年10日宿泊していた。ここで文筆活動に専念していたのである。東経時代に同ホテルで経済小説を3つ書き上げたことも懐かしい思い出だ。それとともに九重近くのゴルフ場でコンペをたびたび行い、3~4回宿泊したこともあり、まさしく我が「梁山泊」であった。

梁山泊
梁山泊

    ところが私的な「梁山泊」が公的になったのである。「データ・マックス」という事業を起こすため、立ち上げに関する「計画考案会議」を幾度か開いたのだ。まさしく、世直しとまではいかないが、新事業立ち上げのため、水滸伝の同志たちが「梁山泊」に結集したのと同様、ここで作戦会議を積み重ねた(部長クラス5名で)。そこで経営理念から始まり、商品政策・事業計画まで練りあげた。ここでは経営理念について紹介しよう!

経営理念~情報発信で世界を幸せにしませんか

(創業の精神)

 1965年当時のことです。アメリカがベトナムに無差別爆撃をしていました。私は「何故、米国がアジアの小国に戦争を仕掛けなければならないか?」という疑問を抱き、不条理に怒りを覚えたのです。若い時代は怒りをバネに社会変革に携わってきました。

 27歳になった1975年に縁があって東京経済という調査会社に入社したのですが、お陰で20年間、幾多の企業をリサーチし数千人の経営者とお付き合いできたのでした。

 結果として、知己を得た大半の中小企業の経営者の方々は倒産の憂き目に会いました。私は企業倒産を目の当たりにして中小企業が簡単に潰される世の仕組みを不条理と察知するとともに、「中小企業が潰れないための、会社が繁盛できる、サポートできる会社を創ろう」と決心したのが1990年前後だったでしょう。

 1994年の夏に会社を起こす決意を経営者の方々に相談しましたところ、10人の出資者が現れ、5,000万円の資金が集まりました。予想もしなかった資本金1億円の会社を立ち上げることができたのです。本当に涙が出る思いでした。「20年間、懸命に仕事をしていたことの評価が受け入れられたのだ」と感慨無量の心境になったのであります。

 また一方、新たに創業の志ある人には、できるだけ協力を惜しまない努力をしていく所存です。

 中小企業が活性化できてこそ地域が、国が繁栄できる。そのためには中小企業の経営に役に立つ経営情報発信が不可欠だ。その経営サポートに磨きをかけてこそ、「人のため、世のため」になる。期待される情報発信を行うことができる人材を大量に輩出することこそが、「社会に貢献する」ことになる。

 この「創業の精神」の大義を忘れずに日夜、経営に没頭することを宣言します。

1994年11月10日

60名が参集、激励会が開かれる

 退社(8月末)から2カ月が経った11月の第1週にパイル工事会社の奥田常務が「コダマさん!貴方の激励会をやるぞ!」と音頭を取ってくれた。この誘いを断る理由はない。この2カ月間は、あまり他人様と会っておらず、人恋しさが募っていた。場所は西中洲の川沿いのホールであった。予想をはるかに超える60人もの友人たちが集まってくれた。ここで、確固とした自信が全身にみなぎった。「やれるぞ!」。

(つづく)

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