30周年を迎え、また超えて(29)30周年祝賀会「おかげさまで」(1)
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480人が参加
今回は11月7日にホテルオークラ福岡で行われた当社の「30周年祝賀会」についてまとめてみる。祝賀会に500人の方に参加のお申し込みをいただき、480人の方々にご参集いただいた。この見出しの通り、「30周年を迎えられることになった恩人」をできるだけ募り、ご参加いただいたのである。
ラジオアナウンサー・中村もとき氏、二木清彦氏などは、当社が「KBCラジオ戦略」において、会社の認知度を急速に高めることに成功した際の功労者である。司会の倉富顕子女史もそのメンバーである。その他、お世話になった経営者に数多く参加していただいた。
だが、それと同時に、当社は「30周年を踏み台として、さらに高くジャンプする」必要がある。未来への後押しをいただくために若手経営者にもご参加を願った。2代目、3代目の方々の列席も目立った。「30周年が墜落の始まり」にするわけにはいかない。新たな飛躍へと踏み出すための11月7日である。
「福岡の経済情報に一層の磨きをかけろ」と薫陶を受ける
来賓の祝辞では、福岡商工会議所・谷川浩道会頭から「データ・マックス社は『NetIB-NEWS』という即時性のある媒体をお持ちである。いつも情報発信が早いことは周知の通りだ。地元企業の為になる情報発信のさらなるスキルアップへの研鑽を期待する」とのお言葉をいただいた。ここまで期待と発破をかけられるのは光栄なことである。社員共々一丸となり、より一層の磨きをかけようと決意を固めた。
スタートは1975年
会長として筆者は、50年間を振り返る内容の挨拶を行った。これまで経緯を書いてきたが、重複しないようにまとめてみる。
「独立前の20年間の修養期間を忘れてはいけない。企業調査マン、情報マンとしてスキルを研鑽したから事業を起こすところまで漕ぎつけることができた。裏を返すとその当時知り合ったお客さまたちから継続的な支援をいただいたからこそ、独立することが可能になったのだ」
1975年3月に知り合った有澤建設さんからは、50年近く支援を受けてきた。当時の冨士機鉄工(現:冨士機)さんとは同年6月、調査先として縁ができた。この会社は法人所得20億円の企業になっている。この間、広告などを発注してもらい、売上に多大なる貢献をしていただいた。アダル創業者・武野氏とは77年6月に初めてお会いする機会を得た。例として3者を紹介したが、知り合えば、付き合いが長く続く傾向がある。筆者自身、これは大いなる財産であると確信している。この20年の生みの苦しみがあってこそ30周年を迎えることができたのである。「詳細はNetIBを参照していただきたい」と挨拶に代えさせていただいた。
回想、走馬灯の如く、前夜は眠れず
挨拶は4分と指定されているから、どうということもない。だが、話の構成を練りあげていると当時の記憶が鮮明に蘇ってくる。記憶をたどり、真剣に向かいあっていると眠れなくなった。75年3月、前記した有澤建設の策士・有澤社長にお会いしたのが、調査の35件目であっただろう。有澤社長からは、島根から福岡に疎開してきたことに始まり、今日に至るまでの経緯について長時間にわたってお話していただいた。このビジネス人生の歴史が記憶に残り続けたからこそ、永い付き合いを持続することが可能となった。
当時の有澤建設は建売業者の下請木造工事業が主体であった。当時、パシフィック興業(主体は航空写真提供業)が建て売りを併営していた時期である。同社はこの下請から脱皮して総合建設業へ飛躍するために奮闘中であった。その後、有澤社長とは定期的に会って同業についての情報提供を続けた。こうしたことを振りかえっていると寝つけなくなったのだ。94年11月、当社設立の際に有澤建設が春日市と西区野方で建売住宅を売り出していたので、社員たちが購入する根回しをして2棟が契約に至った。
冨士機・藤田以和彦社長の凄味
75年6月、調査先で馴染みになった冨士機鉄工の工場は宇美町にあった。当時の藤田社長の年齢は32歳(筆者より5年先輩)で野心と馬力があった。典型的な技術開発型の経営者である。
学生時代(福岡大学)から工場での研究に余念が無かった。今流の表現でいえば学生ベンチャー起業家の走りである。当時の主力業務は生コン工場のプラントメンテ・納入であった。そのころは、受注先である新潟鐵工所の下請から脱皮して元売りメーカーへ転じる移行期であった。
その受注先の新潟鐵工所が倒産し、冨士機鉄工も連鎖するかたちとなった。そのときの藤田社長の様子が忘れられない。顔は真っ青、眼は真っ赤になっていた。悔し涙があふれ、滴り落ちたのであろう。「コダマさん、俺は絶対、これでギブアップしないぞ!絶対に再建させてみせる」と藤田社長は宣言した。倒産現場で経営者と過去数100回遭遇したが、そのなかで、再建スピードが一番早かったのが藤田社長のケースである。
東京・大田区に工場建設
藤田社長は倒産から間もない期間で再建を達成した。まず、筑豊・桂川の工業団地に1,500坪の工場用地を確保した。現在は、周辺を買い取って面積が5,000坪となっている。ここから「躍進スピード」が10倍となった。仰々しい話ではない。ある日、藤田社長が「羽田空港の隣接地域にある工業団地を買った。いよいよ東京征服に行くよ!」と、えらく淡々とした様子で伝えてくれた。工場設備が完了したのが2カ月後、早速、筆者も新工場の視察へと向かった。筆者自身、工場を目にして我が事のように涙が止まらなかった。
このように50年前からの記憶をたどってきたから、必然的に11月7日の記念式典前夜は眠れなかったのである。
(つづく)
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