2024年12月29日( 日 )

鹿児島の歴史

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続々・鹿児島の歴史(12)~「鹿児島ぶり」~
続々・鹿児島の歴史(12)~「鹿児島ぶり」~
「鹿児島風流(ぶり)」について。本書は、江戸の講釈師の伊東凌舎が、参勤交代で帰国する27代斉興に随行して来鹿し、1836年から翌年にかけて藩内の様子を文や挿絵でまとめたユニークな紀行文です。
地域・文化
続々・鹿児島の歴史(11)~明治維新と薩摩藩~
続々・鹿児島の歴史(11)~明治維新と薩摩藩~
西洋列強の進出に対して、情報の収集が早く、領土への危機意識が強かったことで薩摩藩は、琉球貿易を通じて経済的な利益を上げるだけでなく、海外の情報をいち早く得ることが可能であり、西洋列強の状況など膨大な情報を収集・分析していました。これには島津氏が14世紀から海外貿易に関与し、利益を上げていた歴史的背景も関係します。
地域・文化
続々・鹿児島の歴史(10)~薩英戦争と西南戦争~
続々・鹿児島の歴史(10)~薩英戦争と西南戦争~
薩英戦争について。1863年の薩英戦争は、前年の生麦事件がきっかけです。62年公武合体策をすすめるため久光は兵1000余人を率いて上京します(藩主でもない久光の上京実現のために藩はさまざまな画策をしました)。江戸からの帰国途中、神奈川の生麦村で行列に入ってきたイギリス人を斬殺します。薩摩は賠償金支払いを拒否(幕府は受諾)したため、翌年薩摩とイギリスの直接交渉となります。
地域・文化
続々・鹿児島の歴史(9)~奄美の砂糖2~
続々・鹿児島の歴史(9)~奄美の砂糖2~
4期です。これまでの政策を「緩ガセ過ギ候(甘やかしすぎ)」として、徹底的に厳しくします。1830年からの専売制度は、2回目と違い、島での買い上げで隠れて売れば死罪、金銭流通も禁止したため、生活必需品は砂糖交換による藩の販売で、値段も藩が一方的に決めました。この10年間の年平均出荷額は、米6000両に対し砂糖23万5000両です。3期の砂糖は12万両ですので4期は約2倍です。
地域・文化
続々・鹿児島の歴史(8)~奄美の砂糖1~
続々・鹿児島の歴史(8)~奄美の砂糖1~
奄美の砂糖については、主に江戸期の薩摩藩の財政と関連させて述べてきましたが、2回に分けてもっと総合的に述べたいと思います。江戸期の奄美は、砂糖でいえば、1期(1609~1690年頃)、2期(1690年頃~1747年)、3期(1747~1830年)、4期(1830~1867年)に分けられます。
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続々・鹿児島の歴史(7)~郷中教育~
続々・鹿児島の歴史(7)~郷中教育~
ここからは、薩摩藩の子弟教育として著名な郷中(ごじゅう)教育や奄美の砂糖、薩英戦争や西南戦争、藩外・県外の人物が江戸末期や明治中期の鹿児島を紹介した書物2冊、特産の焼酎、シンボル桜島、さつまいも等について述べます。
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続々・鹿児島の歴史(6)~江戸・明治初期と大隅~
続々・鹿児島の歴史(6)~江戸・明治初期と大隅~
外城制度は領内を鹿児島城下と113の外城に分けたものですが、外城の内訳は地頭所(藩直轄)92外城、私領(重臣の一門・一所持支配)21外城です。私領21は薩摩に13、大隅は種子島(種子島氏)を含めて7、日向国諸県郡は1(都城島津家)です。戦
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続々・鹿児島の歴史(5)~九州統一と大隅~
続々・鹿児島の歴史(5)~九州統一と大隅~
南北朝期から戦国期にかけて、島津氏においても一族や他国人の反乱・抵抗が相次ぎ、必ずしも安定していなかったこと、15代貴久が実久との家督相続争いに勝ち、薩摩・大隅の統一に向け動き出したこと等は前述しました。
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続々・鹿児島の歴史(4)~鎌倉・南北朝期の大隅~
続々・鹿児島の歴史(4)~鎌倉・南北朝期の大隅~
1197年惟宗忠久が薩摩・大隅の守護職に任命(後日向も)されますが、1203年比企氏が滅亡すると、一時忠久は失脚します。その後薩摩の守護は北条時政、大隅の守護は1217年以降は北条義時、島津荘惣地頭職も1205年以前は時政の在任が確認されています。
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続々・鹿児島の歴史(3)~大隅の神宮と寺院~
続々・鹿児島の歴史(3)~大隅の神宮と寺院~
平安時代、政府の地方支配は重税の関係から徴税が困難な状況で、深刻な状態でした。『今昔物語』巻二四に「大隅国の郡司和歌を読めること」という説話史料があります。趣旨は、大隅守(10世紀後期の桜島忠信といわれている)が、政務不十分(納税を果たせない)の郡司を罰そうとしたところ、老人で、詠んだ和歌(「老いはてて雪の山をばいただけど霜と見るにぞ身はひえにけり」)の内容を受けて釈放したというものです。
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続々・鹿児島の歴史(2)~大隅国と多禰嶋の成立~
続々・鹿児島の歴史(2)~大隅国と多禰嶋の成立~
683~685年、政府は国境を確定し、これまでの国造支配単位のクニから山川等を国境とし、国司を派遣する国(令制国)を設定します。西海道では、690年の筑後国が令制国の初見で、その後6カ国ができます。大隅地方は日向国に属し、薩摩地方は肥後の影響下の出水を除き、日向国の一部でした。
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続々・鹿児島の歴史(1)~古墳について~
続々・鹿児島の歴史(1)~古墳について~
今回は大隅国(種子島・屋久島等の熊毛地域を含む)や新たに追加したい事柄等を中心に述べます...
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 続・鹿児島の歴史(10)~西郷・大久保以後の人物について~
続・鹿児島の歴史(10)~西郷・大久保以後の人物について~
西南戦争で多くの有為な人物を失った鹿児島ですが、明治期の人物として森有礼(初代文部大臣)、川路利良(初代警視総監)、五代友厚(初代大阪商工会議所会頭)等がいます。軍人が圧倒的に多く、海軍の西郷従道・東郷平八郎、陸軍の大山巌等がいます。とくに日清・日露戦争時の海軍は、ほとんどが鹿児島出身者です。
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続・鹿児島の歴史(9)~流人について2~
続・鹿児島の歴史(9)~流人について2~
県内の流人としては、江戸期の文化朋党事件(近思録崩れ)と嘉永朋党事件(高崎崩れ、お由羅騒動)等が中心になります。文化朋党事件について。重豪の後継の26代斉宣は財政再建を図り、1807年近思録派と呼ばれた樺山主税・秩父太郎等を抜擢します。
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続・鹿児島の歴史(8)~流人について1~
続・鹿児島の歴史(8)~流人について1~
鹿児島は本土最南部、そしてその南方に多くの離島があるため、流人や隠れ人となった人が多くいます。県外人と県内人とに分け、2回にわたって述べます。まず和気清麻呂について。769年、女帝の寵愛を受けていた道鏡の天皇就任問題に関して、清麻呂は宇佐八幡に出向き、「道鏡を排せよ」という神託を毅然と述べたため、道鏡の怒りを買い大隅配流になりました。
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続・鹿児島の歴史(7)~文化・宗教面から~
続・鹿児島の歴史(7)~文化・宗教面から~
692年政府は阿多と大隅に僧侶を派遣します。寺院は隼人に対する教導を期待されていましたが、8世紀後期創建の薩摩国分寺は、東西・南北とも約120m程で築地塀で囲まれ、南大門・塔・金堂・講堂等がありました。仏教浸透の遺構として900年頃の蔵骨器や火葬墓も発見されました。その後島津家菩提寺の福昌寺や坊津一乗院、野田感応寺(初代忠久から5代貞久までの墓がある)等の大寺院ができ、名僧も輩出しました。
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続・鹿児島の歴史(6)~江戸時代の財政面から~
続・鹿児島の歴史(6)~江戸時代の財政面から~
江戸期の薩摩藩の財政については、木曽川治水工事や500万両の借金の250年賦償還法等が有名ですが、藩の特徴をうかがい知ることもできるため、もう少し詳述します。薩摩藩の財政は江戸初期から厳しいものでした。
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続・鹿児島の歴史(5)~南北朝~安土・桃山時代~
続・鹿児島の歴史(5)~南北朝~安土・桃山時代~
前述した背景から島津氏は北朝方となりますが、南朝方となったのが郡司系の矢上氏や谷山氏、守護・地頭系の伊集院氏や鮫島氏等です。南朝方としては、1342年に後醍醐天皇の第9皇子の懐良親王が、征西将軍として入薩します。谷山隆信の庇護のもと5年半生活しますが、貞久を破ったこともありました。
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続・鹿児島の歴史(4)~鎌倉時代~
続・鹿児島の歴史(4)~鎌倉時代~
中央で源頼朝が勢力を伸ばすと、1185年惟宗忠久が島津荘の下司職(げししき、翌年地頭へ)に任命されました。忠久は摂津国住吉の生まれ、摂関家の家人であり、幕府の有力者であった比企能員の縁者(母が比企氏)でもあったことから、両者の利害関係が一致したのです
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続・鹿児島の歴史(3)~平安時代~
続・鹿児島の歴史(3)~平安時代~
前述したように800年に班田制が導入されますが、中央では723年に三世一身法、742年に墾田永世私有令が出されており、班田制はあまりできなかった(しなかった)ものと考えられます。「導入した」という政治的意味合いが強いのでしょう。
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